
ラヴェルの「高貴にして感傷的なワルツ」第7曲目のトリオ、とにかく全てのものはあやふやであいまい、ふわふわもやもやしていていろんなメロディとハーモニーが雑多に交錯するところ。シャンデリア輝く、格調高い大きなダンスホールで「やれやれーひとつおどり終わったらこの歳ではやっぱキツイねえあははは」とかいいながら、タキシードやドレスを着た人たちの集団がバラバラにほぐれていく、よくわからない部分だということが、よくわかる。ドビュッシー「スコットランド民謡による行進曲」、あんなに親しみやすい音であふれているのに、全然おぼえられない。何回CDを聴いてもアタマに残らない。時々、強烈な響きのとこだけ記憶があって、そこ以外は「あれれ、続きはどうだったっけ?」となってしまう。「ハーモニーがどこから来てどこへ行くのかを知ることなんて、クソクラエだ!」とは彼の言葉。フランス音楽は移調してアレンジすると、別の曲になってしまう。
そこまでボケてるぼくの頭が、ブルックナーの4番はおぼえられる。スコアを記憶しているんじゃなくて、最初からずっと歌える、というレベルのことだが。「まふにてぐしがれゆちばをてぬしわぎゃ」はおぼえられないけど、「かきくえばかねがなるなりほうりゅうじ」はおぼえられる。ドイツの音楽は、メロディやハーモニー、形式、リズム、オーケストレーション、こめられた思想、伝統の継承、どれをとっても機械の部品のように役割がはっきりしていてムダがなく、時間的なつながりが必然的である。あらゆるフレーズは会話している。ドイツといえば車は「フォルクスワーゲン」、あいさつは「グーテンモルゲン」、サッカーは「ベッケンバウアー」、協会は「ブルックナーゲゼルシャフト」。がっちりしていてカタい。「なあんとなくこんな感じでええやんどうでもええやん」というのがない。バッハ、ベートーベン、ブラームスが「3大B」と呼ばれることすら、ムダがなくて必然的だな。だれだこんなバカそうなユニット名考えたのは。考えすぎてワケわからなくなってしまい、12色のサクラクレパスを平等に使って絵を書いた人も出てきた。そこへいくとフランスは居酒屋「屋根の上の牛」だもんなあ。
ぼくは合奏のとき、よくフレーズを会話の文章にたとえる。けっこうウケたときは、つい調子に乗ってやりすぎてしまう。じゃあ交響曲第4番の冒頭、ホルンによるメロディで。フレーズの始まりの音だけつないだらB♭→C♭→B♭→E♭。「今日は鳥カラにしようかな。いや、鳥テンにしようかな。やっぱ鳥カラはすてがたいな。うん、いつもどおり鳥カラにしよう。」 (フレーズのおわりのB♭もちゃんと韻を踏んでいます、この芸の細かさ!) これで演奏が変わるようなときに、音楽は世界共通語だってゆうのを感じる気がする。アフリカ奥地に住むクサナテ族がベルクを聴いて感動するのが、世界共通語のあかしではない。もちろん火の鳥の最後が「おうさだはるながしましげお」と歌えるというのも、ちがう。
大久保健二(平成18年10月 松山ウィンドオーケストラ指揮者)
© 2006, Matsuyama Wind Orchestra, Kenji Okubo, and Hiroshi Fujita