編曲者・指揮者による解説『マエストロへの道』(第6回)

耳

ショスタコーヴィチ作曲 交響曲第7番「レニングラード」

その6

〜原調?幻聴が聴こえてんじやないの!〜

松山ウィンドオーケストラ指揮者 大久保健二

ぽくはものすごく記億カが悪い。忘れっぽい。とくに道がダメだ。30年以上住んでる松山の町中で迷子になるのはザラ。いっぺん店の中に入ってまったくちがう方向に出ていったり、毎週まがる同じ交差点をおぽえられなくて、いつも助手席のカミサンにバカにされる。また、何日の何時までに必ずこれを!ってゆうのが死ぬほど苦手だ。すぐ忘れてしまう。もちろん音楽でもそうで、大学のときの試験では、しちめんどいフルートソナタの楽譜やイタリア語の歌詞がおぽえられなくて、本当に苦労した。今でも指揮をするときはCDをくり返し聴いたり、何回も合奏練習したりするうちにやっとこさおぽえる。頭の中で歌えるようになって、ヒマなときに曲を思い出してはそれで曲想を練ったり、ひとりで感動したり、道ばたで指揮の練習をしたりする。スコアを見てるととなりの人に「よくそんなの分かりますねえ、私なんかちんぷんかんぷんだ」とか「楽譜を見ただけでどんな曲か分かるの?」と言われるが、曲をおぽえて音符を目で追いながら頭の中で歌うだけなので、ぽくの場合とうぜん知らない曲はまったく分からない。自分に特別な音楽的能力が備わってるとは、とうてい思えない。

でも、さすがにぽくとちがって能力のある人はちがうらしい。たとえば吹奏楽でキイを半音下げて移調して演奏すると、オケの原曲と半音ずれているので気持ち悪いらしい。原調の幻聴が聴こえるらしい。「やっぱ原調でないとイカン!」などと言う。そりやぽくでも初めて聴くと「何かしら変かな?」ぐらいは思うが、それもなぜか2、3回聴くとすぐ慣れてしまう。そもそも、おんなじ演奏をCDでおぽえるほど聴いたから分かるちがいってゆうのと,モーツァルトが「ビオラのおじさん、こないだ来た時よりピッチが8分の1低いね!」と言ったとゆう話とは、音に対する感覚と記憶力のケタがちがう。モーツァルトの時代はCDがなかった。

現代のフルートという楽器はソプラノリコーダーに似ていて、全部押さえたところから順番に一本ずつ指をあけていくと、ド、レ、ミ、ファになる。ところが昔のフルートは全部押さえたら「レ」で、順番にレ、ミ、ファ♯、ソとなる。つまり、D管である。これはファがシャープの曲、たとえばト長調や二長調の曲だと、きらめくような輝くような、技巧的なパッセージを無埋なくお聴かせすることができるということである。事実、モーツァルトの2曲の協奏曲は、まさにこの2つの調である。

ではそんな昔のフルートでフラットの多い曲を吹くとしたら、どういうことになるのか?ファはとうぜんシャープにならないから、人差し指にもう一本薬指をたして音を半音下げ、無理やり普通のファの音を作る。しかも音はくすんだような、もやがかかったような、鳴りきらない優柔不断な音色である。さらに具合の悪いことに、このときの右手の指の形はフオークフィンガリングと呼ばれ、非常につかい勝手の悪い、運動性に劣った形なのである。ハ短調だのへ短調だのは、ものすごく苦手だ。

つまらん説明が長くなった。バッハの「マタイ受難曲」の終曲は思いっきりハ短調である。つまり、バッハは「われらみな涙してひざまずく」という悲しみにあふれた終曲に,そんなフルートのすすり泣くような音色がほしかった、としか考えられない。もし移調してキイが変われば、フルートの音色が変わって、本当にへんてこりんな演奏になるだろう。さらにへんてこりんなことにはこの時代、バロックピッチといって、現代よりも全体的にチューニングがもっと低かったらしい。原調もくそもない。ようするに、キイによる聴こえ方のちがいというのは「高さ」のことではなく、各楽器に固有の「音色のクセ」が変化することによるちがいではないか、というのがぽくの考えである。ただし、それも古い時代の古い楽器で古い曲を演奏するから出るちがいであって、現代の優れた機能を持つ楽器では、移調してもほとんどちがわない。それさえも、原曲をCDで知らない人にとっては、まったく意味のないことだ。

「作曲家がそのキイで書いてんだからその適り演奏したら?だいたいお前、ショスタコーヴィチよりえらいのか?勝手にキイを変えて、申し訳ないと思わんのか?」ぽくには作曲家に対する畏敬の念がないわけではない。コンクールではカットもしたりする。偉大な作曲者に対して、これ以上の暴挙はない。しかし、ぽくは尊敬している作曲家の作品だからこそ、移調してでもカットしてでもやりたいのだ。松山のお客さんにショスタコを聴かせ、こんなすごい曲を書いた人がいるぞ!と知らせたい。もし、お客さんの中に、「レニングラード交響曲」をカットして移調して演奏したからといって怒る人がたくさんいたら、それは松山に本格的なショスタコファンがたくさんいる証拠だから、理想的だ。何も悲しくない。しかし、原曲のままで演奏すると恐ろしくむずかしく長い長い「レニングラード交響曲」を、なるべく自分たちに演奏しやすく、松山のお客さんに聴いてもらいやすい楽譜に書きかえることぐらいは、許されるだろうか?ウィンドのお客さんは身内が多く、アットホームな雰囲気なのがいいところだ。

でも、本番が終わった夜にショスタコの亡霊が枕もとに立って、「おまえーワシの曲、移調するなやー」と言われたら、すぐにでも書き直しますがね。

(平成15年10月)

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