ドミトリ・ショスタコーヴィッチ作曲(アメリカ・MCA版)
この作品は、1954年の第37回革命記念日のためにという、当時のソ連共産党中央委員会の委嘱を受けて、同年秋に作曲され初演されました。当時のソ連は、第2次世界大戦のために荒廃した国土を再建する途上にあり、彼も国家の意思を受けるかたちでオラトリオ「森の歌」(1949)、カンタータ「我が祖国に太陽は輝く」(1952)などの作品を世に出しました。これらの作品のなかで彼は国土の再建に取り組んでいる人々を讃え、また祖国とその豊かな自然への愛を歌い上げています。祝典序曲もそのような内容を持った作品のひとつで、明快な旋律、またオーケストレーションによって作曲されており、喜びに満ちた作品として世に知られています。
作品はもともと管弦楽のために作曲されましたが、1958年には吹奏楽のための楽譜が出版されました。ただ、これはロシアの軍楽隊の標準的な編成を前提として編曲されたものです。現在広く使用されている楽譜は、ドナルド・ハンスバーガーによってアメリカのシンフォニックバンド(おそらくはイーストマンウインドアンサンプル)のために編曲されたもので、今回の演奏でもこれを使用しています。
ダリウス・ミヨー作曲(アメリカ・MCA版)
ミヨーは今世紀のフランスを代表する作曲家ですが、第2次世界大戦中は戦火を逃れてアメリカにその活動の本拠を移していました。この作品はその時期、1945年に作曲されたもので、同年6月30日、ニューヨーク市のセントラルパークにて、ゴールドマンバンドによって初演されました。彼は、そのスコアに以下のような序文を寄せています。
「フランス組曲」は、バンドのために作曲されました。各パートは、旋律的にもリズム的にも演奏するうえでは難しいものではありませんし、その楽器の平均的な音域しか使っていません。長い間、私は高等学校教育の目的にふさわしい作品を書こうという考えをもっていました。そしてこの作品がその結果です。若きアメリカ国民が集うアメリカの大学や高等学校のバンドやオーケストラ、合唱団において、彼らが彼らの時代の音楽---演奏が難しいものでなく、それでいて作曲者固有の語り口を失うことのないもの---を必要としていることは明らかです。
この組曲の5つの楽章は、フランスの地方(ノルマンディ、ブルターニュ、イル・ド・フランス、アルザス-ロレーヌ、プロヴァンス)にちなんで名づけられています。そこではまさにアメリカそして連合軍が、フランスの地下組織とともに、我が祖国の解放のために戦っていました。私はこれらの地方の民謡をいくつか使っています。
私は、アメリカの若者たちに、これらの地方のよく知られたメロディーを聴いて欲しかったのです。その地方では、彼らのお父さんや兄弟たちがドイツの侵略者たちを打ち負かすために戦っているのです。ドイツの侵略者は、この70年に満たないうちに3度も、戦争、破壊、残忍さ、苦痛、殺人を、平和で民主的なフランスの人々にもたらしています。
フランスのなかでももっとも豊かな地方のひとつである緑の地ノルマンディ。この曲はその豊かさを象徴するがごとくしっかりとした行進曲の趣をもっています。そこには、フランスがもっとも強かった16〜18世紀の雰囲気さえ感じとることができます。また、1944年に連合国軍が上陸したのもここノルマンディの地でした。行進曲のリズムは、フランス国民にとっては自由と希望の復活の足音でもあったことでしょう。
その地名 BRETAGNE からも安しがつくように、この地はもとはイギリスGRAN BRETAGNEの一部でした。気候もどちらかといえばイギリス的で、どんよりと曇った日が続くことが多いといいます。ホルンの印象的な旋律ではじまるこの作品も、どこかイギリスの深い森や灰色の空を感じさせる、荒涼とした寂しげな雰囲気をたたえています。
地名そのものの意味は「フランスの島」。ですがこれは実際の島ではなく、首都パリとその周辺地域を指してこう呼びます。フランスの国土を愛媛県にたとえた場合、市外局番0899エリアがちょうどイル・ド・フランスと呼ばれる地域にあたります。
絶え間なく刻み続ける8分音符とシンコペイションのリズムにのって、いろんな歌が入れ替わり立ち替わりあらわれ、楽しく演奏されます。
ともにドイツ国境地帯の地方です。現在ではともにフランス領ですが、昔からフランスとドイツの間でその領有をめぐって激しい戦いが繰り返されてきました。この土地の歴史は、戦争の悲劇の歴史でもあったのです。
組曲の他の作品が長調を主とした調性によって組み立てられているのに対し、この曲はイ短調で作曲されています。戦争の犠牲となった人々への葬送の行進曲のような趣をもっています。深い悲しみに、ちた作品ですが、ただいたずらに感傷に流されるばかりではなく、最後はイ長調に転じ、祈りにも似た気高い輝きをみせてその終わりをむかえます。
地中海に面した、まぶしいばかりに太陽の輝くこの地は、ミヨーの生まれた土地でもあります。明るく、開放的な土地柄にふさわしく、音楽も陽気で躍動的なものとなっています。太鼓の素朴なリズムやフルートのシンプルなメロディーなど、南フランスの雰囲気を感じとることができます。また、ミヨー自身が強い影響を受けた南米の音楽のひとつ、サンバのメロディーも盛り込まれており、「作曲者固有の語り口」を失うことなく、聴いて楽しい曲となっています。
なお、この文章を書くにあたり、フィリップ・トネト氏より多くのアドヴァイスをいただきました。ここに深く感謝申し上げます。
アルフレッド・リード作曲(アメリカ・サムフォックス版(I)/アメリカ・バーンハウス版(II〜IV))
リードの代表作のひとつであるこの作品は、4楽章からなる組曲として作曲されました。初演、出版に際して第1楽章が第I部、第2〜4楽章が第II部と分けられたために、あたかもまったく別のコンセプトに基づいて作曲された作品であるかのように受けとめられることが多いのですが、本来は全4楽章で構成、演奏されるべき作品です。作品は、アルメニアの古典音楽の確立に多大な貢献をなしたゴミダス・ファルタベッド(1869-1935)によって収集されたアルメニア民謡に基づいて作曲されています。
リードにこの作品を委嘱したのは、イリノイ州立大学のバンドディレクターを務めていたハリー・ビジンという人物でした。彼はアルメニア系のアメリカ人であり、祖国の歌に対しての思いはわたしたちの想像を超える、はるかに熱いものであったことでしょう。アルメニアの音楽のもつ魅力を、リード自身が現代のバンドの機能をフルに活用して最大限に引き出したことばいうまでもありませんが、そこにはビジンの祖国への熱い思いと、これに深く共感しその才能を遺憾なく発揮したリードとのコラボレーションが大きくはたらいています。その結果として、東洋の伝統的な音楽と西洋のバンドが出会い、「アルメニアンダンス」という歴史的な名曲が生まれることとなったのです。
この楽章は5つの部分からなっており、シンフォニックラプソディといった趣を呈しています。各部で使われている民謡は、次の通りです。
最後に、ゴミダス自身のことについて少し触れておきましょう。
1869年にトルコのアナトリア地方に生まれた彼は、その音楽的才能を早い時期に見い出され、祖国のアルメニアに戻ってその才能を生かすべく神学校に入学しました。さらに彼は音楽の勉強を続け、ペルリンでは2つの音楽大学に学んで、音楽学博士の博士号を授与されました。彼は祖国アルメニアの民謡や聖歌、舞曲の収集に力を注ぎました。その数は実に4,000曲以上にのぼります。しかし、彼も戦争という悲劇的な運命に巻き込まれることになります。第1次世界大戦下のトルコ国内では、実に150万人ものアルメニア人が大量虐殺されたのです。彼は幸いにしてその難を逃れましたが、多くの同胞の死をまのあたりにした彼は大きなショックを受けます。彼はその傷を癒すことができず、1935年にパリでその生涯を閉じました。
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