組曲「展覧会の絵」(M.ムソルグスキー作曲)その1

〜どうせやるんなら、ラベル版から逃げたい〜

松山ウィンドオーケストラ 大久保健二

展覧会-1

さあこまった。だれが聴いても、ラベル編曲の「展覧会の絵」はムソルグスキー作曲じゃない。たとえていうなら、ピカピカの超合金のロボット人形、砂糖菓子で飾られた複雑な模様のデコレーションケーキ、プラモデル。ムソルグスキーはもともと家柄も育ちもよく、何不自由なく育ってきたくせに、死ぬときは浮浪者同然の身なりと暮らしの中で、アル中で死んだ。ロシアの民衆の心を謳いあげる高い理想を持ち続けて仕事に励んだあげく、その作品はあまりにもオーケストレーションが下手で形式がぶかっこうすぎ、自分が生きている間はまともに演奏さえしてもらえなかった。フランス人のロシアアバンギャルド趣味、それが高じてのムソルグスキー発掘には敬意を表するが、「展覧会の絵」は金持ちオジサンの音楽ではない。

何が苦労したって、ラベル版があまりにも普及しすぎたために、「展覧会の絵」の聴きなれた響きを自分のアタマから追い払うのにいちばん苦労した。ラベルはオーケストレーションが上手なんてみんなにいわれているが、じゃあどこがどのように上手なのか。上手というか、ラベルは自分の耳に聴こえてくるハズの音を、そのまま楽譜に起こしただけだ。職業作曲家としての趣味の良さにあふれている。ショスタコ編曲のホヴァンシチナに比べたら、そりゃあ趣味がちがいすぎる。ムソルグスキーとは食べるモンも着るモンもちがいすぎる。あと、ストコフスキー編曲なんてのもあって、徹底的に劇的に聴こえるように準備してあって、スコアはまるでなんかの設計図のように見える。フレーズはずたずたになってつながらず、楽器の色だけで音楽を聴かそうとしているのがよくわかる。割り切ったコンセプトには共感できるが、なんというか「サイボーグ」みたいで、落ち着かない。いっぺん聴いたら好奇心は満たされる。それにくらべてN響アワーで聴いたリムスキーコルサコフ監修、トゥシュマロフ編曲ってゆう、あれはよかった。だって、ラベルが編曲するだいぶ前の仕事で、ムソルグスキーと同じ国で同時代を生き、いっしょにいた人たちがよってたかって編曲したものだ。うまくいえないが、においがちがう。楽譜を見ても音符から立ちのぼるにおいがちがう。ロシアのにおいがする。ぼくが死んでぼくの日本的なピアノ曲が演奏されるようになっても、ジョン・ウィリアムスに編曲を頼んだりはしない。あっ「頼めたりはしない」のまちがいだ。

むかしNHKが「展覧会の絵」の「絵」をさがすという番組を作ったことがあって、その取材成果をまとめた本が手もとにある。これはものすごく役に立った。この本に出てある「絵」を出発点として思い出しながら、次のように編曲を行った。原典のピアノ譜とリムスキー版のスコアをならべてじっくり時間をかけてながめ、頭の中で響きを練る。ちょっとでもききおぼえのあるサウンドに傾いていきそうになったら、ラベル版のスコアを取り出して反省(?)する。つかれたらストコフスキー版のスコアを見てあははははーと休憩し、もう一度ピアノ譜とリムスキー版を比べる。だいたいサウンドの方向が固まったら、「禿山の一夜」の原典版のスコア(正式には「聖ヨハネ祭の前夜の禿山」)から似たような場所を探しだし、そのオーケストレーションを参考にして、金管楽器と打楽器の位置を決める。ムソルグスキーは金管楽器と打楽器が大好きで、しかもその使い方が特にへたくそで、だからこそ、その使い方によってムソルグスキーの響きを出すのだ。技術的には吹奏楽の美徳にのっとった範囲で、音色がムソルグスキー特有のあのふわふわしたアンバランスなものになるように微調整する。まちがってもアルトサクソフォンやトランペットのメロディックなソロはない。ごめん。

「こびと」はピアニズムあふれる曲で、みにくくちっこい妖精が急に動き出したり立ち止まったり、ベーと舌を出したかと思えば隠れて見えなくなるとか、そういうのが実にうまく表現されている。ちっこいから少々グロくてもかわいいのであって、大編成で大人が100人いっぺんにそんなことをしたら、それは怖いだろう。「テュイルリー」はよくある場つなぎのための曲で、あってもなくてもいいけど、あってもなくてもいいものがあることが貴族の常識、ていうような帝政ロシア時代のヒマさ加減が光る曲だ。牛丼にかぶりつく前にどうしても「今日のスープ」をいただかないと落ち着かない日本人、いますか。「卵の殻をかぶった雛」は、むかし中村紘子がテレビで演奏したのが忘れられない。あの、有名なぴよっぴよっぴょっぴぴってゆうメロディは、ピアノでないと表現できない。ほかの楽器でわざわざやる気をなくさせるに十分、正真正銘の天才が5分でつくった珠玉の小品。

親友ガルトマンの絵は、ひとことで言うなら「器用貧乏」である。自分が何かの紙切れにちょこっと書き残したスケッチが、なにか芸術的で深く真剣な意味合いを含んでいることはまったくありません!と断言しているような作風である。小柄で冗談好きで頭のいい人だったらしく、空想の建築物や工芸品の設計図、舞台装置や演劇のための衣装スケッチなんか書かせたら、横で見ながら思わず「うまいなあ!」といってしまいそうになるような器用さ、だったんじゃないかな。そんで実は、ムソルグスキーにも似たところがある。彼はピアノを弾くのがほんとに器用で、たとえば誰かの作風に似せてちょっとした小品を即興で弾くとか、ある場面のある登場人物の情景を最小限の素材を使って短い音楽に仕立て上げるとか、そういうのにめっぽう優れていた。ガルトマンの絵は小さい絵ばかりだが、よく考えたら「展覧会の絵」の一曲一曲も、本当は短くささやかなものばかりである。「展覧会の絵」がムソルグスキー自身の手によってオーケストレーションされなかった理由はここにある。自分の家に友だち集めて、酒でも飲みながら一曲一曲、死んだ親友の思い出を話しながら手を動かして次々弾いていく。がんがんがんがん鳴らすんじゃなくて、ひとつひとつの曲をそおっとていねいにお供えするように。スターソフなんか、ムソルグスキーの演奏をピアノにもたれて聴きながら、ウォッカの入ったびんを手に持って「キエフ」の聖歌が入るとこでぽろっと泣いてしまったりするのだ。

オーケストラ版の「ババヤガ」も「キエフ」も、おおげさすぎ。何がうれしくて魔女がぶんぶん飛び回るさまを大声で訴え、両手を広げてわあわあわめきながら何10分もロシアの栄光をたたえ続けるなんて、ぼくの親友が死んでもそんな恥ずかしいことはしない。この曲は、親友との思い出が詰まった、非常に個人的な手紙の束である。それをこれから吹奏楽用に一枚ずつ編曲していくことにする。


Copyright (c) 2005, 松山ウィンドオーケストラ, 大久保健二