松山ウィンドオーケストラ 大久保健二

さあきた、キエフだ。まえにベートーベンの交響曲第7番をやったときに、第4楽章の最後、解決へのじらせ方を説明するとき、引き合いに出したのがこの「キエフ」だ。たしか、ずうっと同じような和音、同じようなサウンドの連続で、食傷気味になるとかなんとか、ボロクソに書いたおぼえがある。
キエフの編曲では、最初、2つの大きな特徴というか、かなめになる2点の解釈に知恵を絞った。一つ目は「キエフの主題」に2回挿入される、ロシア正教の賛美歌のような四声体のコラール。そしてもう一つは、ウラメロディとしてプロムナードが戻ってくるときに、ずうっと表に聴こえている鐘の音である。しかし、考えを進め、編曲を進めていくうちに、この二つの要素は、実はまったく同じ目標を目指している過程のうちの同一要素であり、ある考えでつなげば、一本の太い線でぴーんと「キエフ」の全体構造を貫くことができる、ことに気づいた。そのある考えとは、「親友とのお別れ」である。
ここでいうガルトマンとの「お別れ」とは、「お葬式」のことに他ならない。ま、極端な言い方だが。元気なお年よりは「お迎えが来る」なんて冗談で言うが、「キエフ」の2回のコラールは、まさにお迎えである。最初は別の世界から聴こえるように遠く弱く、2回目ははっきりとわれわれの耳に聴こえるように近く大きく。ここでわれわれは、今回一番大胆で、独創的な試みをしている。お楽しみに。
お迎えが来てお葬式をすませ、親友の死を受け入れなければならぬことがはっきりしたら、今度は「葬送」である。ムソルグスキーの未完の歌劇「ホヴァンシチナ」の前奏曲は「モスクワ川の夜明け」といって大変美しい曲だが、気になるのはその鐘の音。やたらに重く、陰鬱で不気味な音がする。これから起こる血なまぐさい事件を先取りする、不吉なサウンドにあふれている。(ショスタコーヴィチ版は完璧。)もうひとつ、「ボリス・ゴドゥノフ」の戴冠式の場面。華やかで祝典的な雰囲気にあふれてはいるが、やはり、どこか不安な気持ちをぬぐいきれない、皇帝の運命の先行きを案ずる警鐘として響く。この二つの例を参考に、ここも非常に大胆な編曲をした。
何回もしつこくくりかえされるキエフの主題は、ムソルグスキーの「君はこんなに立派な門のデザインを考えたやないか!君はこれからのロシアにとって、なくてはならん芸術家やったんやで!」という内容の弔辞。回帰するプロムナードは「君が死んで、いったいこれから、このロシアの芸術はどうなるんや!ぼくだけおいて、先に逝かんといてくれや!」という内容の嘆き。この曲は基本的には長調でありながら、愛する親友への個人的なお別れの言葉と感傷でいっぱいのレクイエムである。ただの大団円的終わり方にだけは、絶対にしたくない。だから、最後の変ホ音のユニゾンは、永訣をイメージさせる、最も悲しみにあふれた終止音として響かせられたら、大成功である。
Copyright (c) 2005, 松山ウィンドオーケストラ, 大久保健二