て日々

2010年1月


2010年1月31日(日)あめ

午後もだいぶ遅くなってから、皆でコミセンの図書館に行った。その後、食材の買い物のためパルティ・フジ松江へ。ここにはめったに来ないのだが、【息子】の散髪をしてやらねばならず、パルティ・フジ衣山と、ここパルティ・フジ松江の1000円カット散髪屋さんには、子供向けの自動車デザインの席があるのだ。Wiiのリモコンを買い足す相談もしていたが、それはいろいろの兼ね合いで延期となった。


2010年1月30日(土)くもり

俺は人生のどこかで、道を間違えたというより、道を歩む仕方をなんらか間違えて身につけてしまったのだろう。無力さに打ちのめされていないときには愚かさに支配されている。両極端で中庸を知らない。いい歳をして子供みたいに無力で不見識な俺は、この先もアホバカマヌケのまま見苦しく生きて、最期もアホバカマヌケのまま見苦しく死ぬしかないのかもしれない。

いや、たとえそうであったとしても、あきらめるのはいつでもできる。その前にもう一度、やればできるかも知れないことに賭けたほうがいい。


2010年1月29日(金)くもり

妻、医者に行く。本人は胆石を疑っていたそうだが、胆石はなかった。しかし、脳内ケロリンパ液、いや違う、尿内ケトン体なるものが検出されたらしい。これは、脱水・低栄養状態で皮下脂肪を消費した際に出る、その燃えカスのようなものだそうだ。なんと、体調不良って、栄養不良だったのか。それは申しわけない、もっと家事を手伝って妻をいたわってやらなくちゃ、と思ったら、そうではなく、胃腸の不調が先にあって、それで栄養が取れていなかったという順序らしい。ううむ。ではその胃腸の不調の原因は何なのだ。ケロリンパの有無にかかわらず、やはりもうちょっと妻をいたわってやらねばなるまい。

ピアノのレッスン。やっぱり脱力が足りず、結果として、ミスタッチが多く、メロディーと内声のバランスが悪く、おまけに疲れやすい。普段の練習のときから正しい姿勢と脱力を意識しないといけない。


2010年1月28日(木)くもり

未明、亡き師に叱られた気がして落ち込む。

昼間は、期末テストに何を出題するか考えていた。夜は出かけている妻の代わりに子供と遊ぶ。【娘】はずいぶん ぷよぷよ がうまくなった。対戦したら負けるかもしれん。


2010年1月27日(水)くもり

16日の休日出勤の代休を取る。なんというか、たいへんアホな理由で電車に乗り遅れたので、普段なら妻が車を出して送っていくところだが、きょうは俺と【娘】が普段の一本あと(14分後)の電車で出かけ、【娘】の尻を叩くようにして学校へ急がせる。結果、どうにか登校期限1分前に校門に到着。それからいつもの喫茶店に行き、来週の授業をどうするか(どう締めくくるか)を考える。これは、来年の同じ講義をどうするかということにも、直接つながっている。

午後、【娘】の授業参観に行く。算数の授業だ。長い模造紙に自分たちの型を写しとり、30cmの物差しを何度か当てて測る。つぎに、先生が1mの物差しを取り出した。これを使って同じ図をもう一度測る。先ほどの計測結果が133cmだったら、今度は1m33cmとなるわけで、こうした実験を通じて、1m=100cm ということを覚えてもらう。とまあ、そういう授業。2年生で経験するこうした計測の実践が、このあとの小数表示の理解に結びつく。なかなか楽しそうな授業風景だった。しかし、狭い教室や廊下でたくさんのお母さんたちに混じって見学するのは少々緊張した。

昨晩から体調を崩している妻が本格的にしんどそうなので、今夜も夕食を作る。びんながマグロのおつくり。イカの生姜煮。菜の花のおひたし。大根おろし。


2010年1月26日(火)はれ

午後、微熱があるとて家で横になっている妻から、Cメールが届いた。

のやわやわやわなさらわ
やわなわなわやにわはい
なやなまやわかなさたゆ
もま

だそうだ。「わ」の字をとばして読むとか、一文字おきに読むとかすると、意味のある文になるのかもしれないと思ってしばらく考えたが、わからない。いちばんありそうなのは、【息子】の悪戯だ。だから「こらっ」と鬼の顔アイコンをつけて返事した。しばらくしてまたCメールが届いた。それによると、

いかなかなやなかぬやた
なやわなやかこのたなゆ
なかなやにやかなやわや
にやわやにやとやなやわ
ゆわやかなや

ということであった。【息子】のやつ、ママが寝込んでいるのをいいことに、携帯電話をいじり放題だ。【息子】としては、ママの携帯のメール送信画面の紙飛行機のアニメーションが見たいだけなのである。そんなことのために、先日も実家のばあちゃんに何度もメールして心配をかけたばかりだ。注意してやろうと音声通話を仕掛けると、お留守番サービスセンターに転送された。なかなかやるじゃないか。

後日追記: このメールの文章(?)をひらがな読み上げソフトウェアに読み上げさせたものをMP3化してみた。(ikanaka.mp3: 163KB) (3月6日)

体調の悪い妻の代りに、早めに帰宅して夕食の用意をする。味付き鶏肉を買ってきて焼き、ジャガイモを茹で、ナスとほうれん草を炒める。ジャガイモはなかなかうまかった。

夜、寝る段になって、【息子】から届いたメールを【娘】に「のやわやわやわなさらわ…」と読んで聞かせてやると、【娘】はあまりのことに笑い転げて失神してしまった。


2010年1月25日(月)はれ

妻の車の車検切れをガソリンスタンドで指摘される。あわててディーラーに電話して引き取ってもらい、夕方になってとりにいった。


2010年1月24日(日)はれ

今日はアイテムえひめで開かれている メッセまつやま なるイベントに行ってきた。午前中のうちにいくはずが、掃除をしているうちに昼を過ぎてしまった。昼飯を会場で調達するつもりで出発。ブラジル風牛串、トルコ風のケバブサンド、肉まん、やきそばなどを食う。お買い物は、フライブルグのビールとワイン、大根キムチ。展示では松山工業高校のソーラーカーや二足歩行ロボットが面白かった。ロボットは身長40cmくらい。ラジコンで、歩いたり、でんぐり返ったり、腕立て伏せをしたり。ソーラーカーの模型(子供向けの教育用モデル)には、太陽電池駆動と乾電池駆動とを車体の傾きに応じて自動的に切り替える(上り坂でだけ乾電池を使う)ため、シーソーみたいなスイッチ機構が備わっている。この部分は松工独自の工夫で、特許出願中であるらしい。高校生たちも頑張っている。

妻の報告によると、【娘】は俺がワインを買ったのを見て、1,400円もしたんよ、すっごい高いんよぉと驚いていたらしい。【娘】の金銭感覚で言えば、ぷっちょ二週間分だから、かなり高額に見えるだろうなあ。しかし試飲させてもらった感想を言えば、ドイツワインらしくフルーティーでありながら、辛口ですっきりしていて、1,400円なら、むしろお手ごろだったぞ。


2010年1月23日(土)はれ

朝、久万の台温泉にいき、電車で街へ出て、散髪に行く。本屋をちょっとのぞいて、愛媛県美術館に『円空・木喰』展を見に行った。前に散髪に行ったのは昨年10月1日だったから、たっぷり3ヶ月以上経っている。『円空・木喰』は明日まで。ずっと気がかりだった散髪と美術館を一日で終わらせることができた。午後は子供たちと一緒にWiiで遊ぶ。夕食はおでん。

『円空・木喰』展はすばらしかった。円空さんの手にかかるとそこらへんの木切れがあっというまに仏像に変わるのだ。材木というものに対する目が常人とは違うのだろう。木喰仏のほうがいわゆる芸術に近い趣であり、それはそれでとてもいいのだけれども、円空仏には、常人のものの見方を驚かす現代芸術に通じるものがある。「打ち捨てられた木切れにも御仏はいらっしゃる。お前さんたちにそれが見えるかな」という宗教家の問いかけがある。「そうか見えぬか。ならば、見えるようにして差し上げよう。」 円空さんが鑿を振るうと、薪の中にたちまち阿弥陀如来のお姿が浮かび上がる。

そう思うと、二階で開催されていた「ミルコトカラ ハジマル」という現代作家グループの展覧会を訪うことができなかったのは、妻が学校に行く時刻との兼ね合いがあったので仕方がなかったとはいえ、残念なことであった。そちらは後日また見に行くことにする。

歩数計カウント7,439歩


2010年1月22日(金)はれ

さほど忙しいわけでもないのに「まとまった時間が取れない」と思っているのは、要するに時間の使い方がヘタなのだ。うまく時間をやりくりするにはマメに身体を動かし積極的に時間の隙間を埋めていくべきだ。昨日あんなに気持ちがふさいだのは、ひとつには、認めたくはないことだが、日ごろから受身で投げやりに生きていることに自分で気づいていたからだ。それじゃいかんだろうという考えがねじれて出てきていたのだ。そしてもうひとつは、腹が減っていたから。

夕方、東北大の小川先生の数学談話会。この人が名古屋の助手だったとき俺はそこの大学院生で、それほど親しかったわけではないけれども、何度か話をしたことがある。講演前にそのことを言おうと思って水を向けたら、小川さんのほうから思い出してくれて、「ひょっとしてそうかなと思ったけれどヒゲがあるし、どうかなと思った」なんて言ってくれた。覚えていてくれたとはうれしいことだ。講演は非線形の拡散方程式の臨界点の問題で、専門外の俺にはわからないのだけど、方程式の物理的な意味に注目して背景や結果の解釈を言ってくれたのでありがたかった。いつもより30分おそく午後5時開始だったうえに、解析や代数の談話会のときはいつも質疑応答が活発で、なかなか終わりそうになかった。6時15分になって、座長の俺の権限で閉会したけれども、ピアノ教室に着いたのは6時50分。7時から別のレッスンがあるという。それでも5分だけ弾き、先生にアドバイスをもらった。いつもすみません。5分でも聴いてもらえたのはありがたいことだった。

もちろん、遅れるときは連絡くらいすべきだった。そうでなければ、O野先生に貴重な時間をみすみす無駄にさせることになる。ただ、今日に限っては、もしも「遅れます」の連絡を6時15分の時点でしていたとして、レッスン時間が10分もとれないと聞けば、後ろ向きになりがちな俺のことだから「じゃあ、きょうはお休みさせてもらいます」と言ったかもしれない。連絡しなくてよかったなんて言うわけにはいかないが、時間の有効活用ということを考えれば、ちゃんと連絡をするマメさと、レッスン時間が5分しか残らなくてもあきらめない積極性が必要だ。

歩数計カウント10,111歩。


2010年1月21日(木)くもり

どうも無力感にさいなまれる。幾何とトポロジーを少し勉強せにゃならん。夕食は茜屋のラーメン。


2010年1月20日(水)くもり

卒業研究発表会のアブストラクトの原稿、うちのゼミ生三人のぶんはなんとか締め切りに間に合いそうでひと安心。午後、昼寝から覚めてまだ頭がぼっとしているうちに、Wくんが質問にきた。内容はゲーデルの不完全性定理の証明の成り立ちに関すること。最初のうちはこちらの頭が回っていないので、しばらくトンチンカンなやりとりをしたが、調子が出てからは大丈夫。ゲーデルの証明は、今月7日の日記に書いたクリーネの不動点定理の証明と本質的に同じ対角線論法なのだが、メタレベルと対象レベルの議論を言ったりきたりしないといけないややこしさもある。おかげで俺だって、読むたびに頭が混乱しそうになるが、わかってしまえば決して難しい証明ではない。とくにWくんは先週のセミナーですでに「原始帰納的関数の表現可能性」の証明を勉強済みであるから、ていねいに解きほぐしていけば、この証明も必ず理解できるはずだ。しかし残念なことに、テキストの記述はわかりよいとはいいがたい。

夕方、妻が車で迎えにきたので、4人そろって家路をたどる。数日前から保健所の駐車場(消防署の駐車場を兼ねている)に中島の消防分団のミニ消防車が並んでいるので、消防自動車大好きの【息子】のために立ち寄った。夜の読み聞かせ『西遊記』はいよいよお釈迦様の出番だ。天界最強のプリンス二郎真君とはどうにか互角に戦った孫悟空だが、お釈迦様にかかるとまるで子ども扱い。呪文を書いたお札で封をされた石の牢屋に主人公が閉じ込められてしまって、【娘】は「これからどうなるんだろう」と興味津々の様子。

物語を掲載しているウェブサイトもありました。さちよさんの、中国御伽草子『西遊記』です。

昨日と今日で、ジョージ G.スピーロの『ポアンカレ予想〜世紀の謎を掛けた数学者、解き明かした数学者』(早川書房)を読み終えた。たいへん面白かった。


2010年1月19日(火)はれ

昨晩のアンケートに 夢を見たことがない なんて項目があったが、今朝は「敵地名古屋」に向けてミサイルを飛ばす夢を見た。どうして名古屋が敵地なのか、その理由はわからないし、そのミサイルというのが、なぜか紅白に塗られた鉄骨作りの、電話局のアンテナなのである。煙をもうもうと噴き出しながら飛んでいくアンテナというのも、構造的にありえない気がする。

ひさびさにばうからメールで連絡。なんじゃいなと思ったら、知り合いの大工さんが図面の数の計算に困っているから教えてくれという話だった。高校一年で習うレベルの三角関数の知識があれば理屈はなんでもないが、関数電卓か三角関数表が必要だ。といっても、その程度の関数電卓機能はマイクロソフトさま標準添付のWindows電卓ソフトにも備わっているので、これくらいならおやすい御用である。聞けば、動物園のアヒル小屋を作るためだという。完成したら家族そろって見に行くことにしよう。


2010年1月18日(月)はれ

夕方、とくに理由もなく気持ちが沈んで、なんだかやりきれない。腹も減ったことだし、重い足を引きずるようにして歩いて家に帰った。なんでも、妻の同級生が大学院で「働く人の疲労に関するアンケート調査」というのを作っているそうで、テストに協力してくれと言われた。なにもこういう気分の時にそんな話を持ってこなくても、と思ったが、あまり深く考えないで答えてくれというので協力してやった。なにせ調査内容が調査内容だから、自分の能力の限界を感じている とか 前日の疲れがとれない とか、あまりハッピーでない質問項目が並んでいる。「自分には能力がない? あーもう、どうせそうですよそうですよ」とか、質問紙に向かって悪態をつきつつ、シートに鉛筆でマークしていく。

しかし、あまり深く考えるなと言われても、 人の役に立つことに喜びを感じる という項目を見ると考えてしまう。これが すすんで人の役に立とうと心がけている という質問だったら、迷わず「いいえ」と答えるが、そんな俺だって、人の役に立って喜んでもらえたら自分も嬉しいのは確かなので、文字通りの意味にとれば答えは「はい」だ。そこからすこし脱線して、すすんで人の役に立とうと心がけていると自己認識している人にもピンからキリまであるねえなんて話を、妻としたのだが、まあいずれにせよ、客観的に役に立っているかどうかと疲労感とのあいだには、おそらく目立った相関はあるまい。自己認識と疲れやすさの相関のほうが、ずっと大きいはずだ。

なかには、肯定的な自己認識を問う項目、たとえば 自分には友人たちにはない優れた能力がある なんてのもあった。人に優れた俺の能力? あるような気もするし、妻も「あるある」と言ってくれるが、はて、どんな能力だったっけか。

いちばん困ったのが、夢を見たことがない という項目だ。これは、眠っているときに見る夢のことなんだろうか、それとも、希望に満ちた将来のビジョンという意味なのだろうか。前者ならしょっちゅう見ている。だが、後者となるとどうだろう。最近はさっぱりだが、昔はまあ、夢ばっかり食って生きていたようにも思う。それはしかし、希望に満ちた将来のビジョンなどではなく、さして根拠のない絵空事であった。そういうのを含めてよければ答えはまあ「はい」だけど。

まあたしかに、タワゴトでも明るいビジョンをもって生活している人のほうが、疲れにくいかもしれない。「疲れやすさ」と「自己認識」とに強い相関があるというのは、ありそうなことだ。ただ、調査でそのことが統計的にも立証できたとして、その結果をどう利用すればいいのかは、よくわからない。疲労感を克服するために毎日を明るいビジョンをもって過しましょうなんて言われても困るじゃないか。明るいビジョンと肯定的な自己認識をもって毎日を暮らすというのは、いわば究極的な目標であって、疲労感の克服なり、家庭環境の改善なり、何か他の目標の手段にできるようなものではない。

それに、統計的な相関は因果的な連関ではない。たとえばの話、メガネをしている数学者がいかに多かろうと、メガネをしたほうが数学者になりやすいということではないのだ。社会的に適応しにくいことも、肯定的に自己認識できないことも、疲れやすいことも、生きていくうえで背負ってしまいがちな厄介ごとで、克服できればそれに越したことはないけれども、統計からは、どうもこの三つを一緒に背負ってしまう人が多いようだ、ということしか結論できないような気がする。いや、まあ、詳細な調査であっと驚くところに突破口が見つかる可能性は排除できないが。

たとえば、「成功している人は、たいてい△△△を実行している」ということが統計調査から立証できたからといって、成功するために△△△を実行するというのは、いわば同一化の心理機制、あるいは「隣の欲張り爺さん」、またはカーゴ・カルトである。そうならないように統計データを利用するには、さて、どうすればいいか。


2010年1月17日(日)はれ

妻子より一足早く起きて朝飯を作る。味噌汁。もやし炒め。ご飯にはチャーシューとほうれん草を載せ特製のタレ(醤油+みりん+刻み生姜+刻み葱)をかけてチャーシュー丼にする。昼食は蕎麦だが、朝のほうれん草の残りくらいしか具がないのでスーパーに行く。ちょっと奮発して、特大えび天一本210円を子供のために2本。かきあげ一枚158円を俺と妻のために2枚。それとかまぼこ一本(と数えたのでよろしうございますか?)。具はもちろんのこと、自分で作ったつゆも上出来だったが、麺がよくない。午後はコミセンの図書館。夕食は妻に任せる。休日の食事の用意はこういうぐあいに分担するのがいいようだ。

それはそうと、妻は学生時代 ぷよぷよ SUN に熱中していたそうで、目を閉じると瞼の裏にぷよが落ちてくる姿が映る、あの落ちゲー中毒も経験しているという。その後、仕事でコンピュータを使うようになってからはずっと ぷよぷよをみずから封印してきたらしい。近いうちにWiiリモコンを買い足して勝負しなくちゃなるまい。


2010年1月16日(土)はれ

朝から宵の口まで休日出勤。脚が痛い。歩数計カウント11,581歩。


2010年1月15日(金)はれ

昼食は妻とパルティ衣山の紅虎餃子房 (ホンフー・チャオジ・ファンと読むらしい。べにとらぎょうざぼう と読むのは邪道だろう。) その後、ABCマートで靴を買う。

ピアノレッスンから帰って、待望のWii開き。無線LANに接続してインターネットからニュースや天気予報をダウンロードしてくるというのがなかなか気が利いている。Miiと呼ばれるアバターを作る機能が本体に内蔵されていて、これで【娘】が妻の顔を作ったら、本人が大うけ。さっそく写真にとって仕事がらみのSNSで公開していた。いまのところ、ディスクは妻が懸賞で当てたWii Fitと大晦日に俺が中古を買った ぷよぷよ!15th Anniversary だけ。

歩数計カウント10,768歩。


2010年1月14日(木)はれ

日の高いうちは久々のいい天気。しかし夕方には南の山並みが灰色の雲に覆われて見えなくなった。石鎚あたりでは雪が降っているにちがいない。夕方、玄関の鍵穴に鍵がささらなくなったと妻からの電話。俺も帰って確かめてみると本当に途中までしか鍵が入らない。鍵屋さんに来てもらって事なきを得たが、ものが詰まっている形跡はなく、小さな部品が少しずつ変形していたということだから、あるいは俺たちの普段の扱いが荒っぽかったせいかもしれない。その後、子供2人(合計体重43kg)が食卓用の子供椅子にのってホタエたもんだから、椅子が壊れた。しかたがないので、俺がピアノ椅子を使って夕食。なにかにつけ、普段の扱いが荒いのは間違いないようだ。

やる気のないあひる

昨日の単体同型写像の話の続き。しかしこのあたりで混乱するのは俺だけではないらしい。単体写像の定義には二つの流儀がある。ひとつは頂点間の写像として定義するもの。もうひとつは単体の有限集合としての複体の間の写像として定義するもの。前者の場合は、単体同型写像の定義を「単体写像かつ全単射で、おまけに逆写像も単体写像」と言わなければならない。後者の場合は単体写像が全単射なら自動的に逆写像が単体写像になってくれる。杉原厚吉『トポロジー』では単体写像について前者の定義を採用しているのに、単体同型写像については「単体写像が全単射であるとき」と定義している。これはハッキリとマチガイ。瀬山士郎『トポロジー:柔らかい幾何学』では、後者の単体写像の定義を採用しているのだけれども、昨日は俺がそれを前者と読み違えてしまったようだ。だって、

定義2.7  \(K\) と \(L\) をふたつの1次元複体とする. \(K\) の0-単体に \(L\) の0-単体を対応させる写像 \(f:K\to L\) について,
\(|xy|\) が \(K\) の1-単体なら \(|f(x)f(y)|\) は \(L\) の単体となるとき,
\(f\) を単体写像といいます. (瀬山士郎『トポロジー:柔らかい幾何学』, 29ページ)

なんて書いてあるんだから、よほど注意して読まないと、どっちの流儀で定義しているのかわからない。あと、一樂重雄『位相幾何学』では単体写像の定義を後者でしており、単体同型写像は定義されていない。岩波数学辞典第4版では前者の定義。他の本もちょっと調べてみよう。


2010年1月13日(水)くもり

かなり寒い。午後から晴れ間が見えた。

来年度の講義に備えて、瀬山士郎『トポロジー:柔らかい幾何学』(日本評論社1988年/2003年増補版)、一樂重雄『位相幾何学』(朝倉書店1993年)、杉原厚吉『トポロジー』(朝倉書店2001年)などを開いて、位相幾何の初歩のところの勉強を開始。単体、複体、多面体まではよかったが、「単体写像が全単射であるとき、単体同型写像という」という定義がどうにも本当と思えず、そこで手が止まった。結局わからないまま帰宅し、すっかり忘れて就寝し、夜中に目が覚めた時にようやく理解した。要するに俺が単体写像の定義を誤解していただけだった。いや、なさけないナサケナイ。

夕食にレバニラ炒めを作った。スーパーにレバーがあまり置いてなかったのでホルモンを加えたが、それでも4人分には少なかった。味付けは例によって、自分ではあまり気に入らないが妻子はうまいと言ってくれた。夜には子供たちに青い鳥文庫版『西遊記』(呉承恩 著, 清水耕蔵 イラスト, 松枝茂夫 翻訳, 講談社)を読んで聞かせる。今夜で3夜め。孫悟空が東海竜王の竜宮に如意金箍棒を貰いに行くところだ。300ページほどにつづめた子供向けのリライト版ではあるが、一夜に1セクションか2セクションずつ読んでいくので、当分続けられる。2年生の【娘】が自分で読むにはまだ難しいが、大人が解説を加えながら読むにはちょうど具合がいい。子供が書いたような近頃の児童書と違ってなかなか格調高い文章だし、派手な衣装の描写や戦いのアクションなどもあるから、読み手のこちらの技量が問われるぞ。


2010年1月12日(火)くもり

普通なら火曜日はセミナーがなくて講義のある日なのだけど、うちの職場では今日に限って「なんちゃって月曜日」である。だからセミナーが8時半からある。きょうから本格的に日常に復帰するはずの【娘】と【息子】が、朝になってもなかなか起きてこない。俺は7時すぎには出かける用意が済んでいたのだけど、【娘】がもたもたするうちにいつもの電車に間に合わなくなった。妻が車で送っていくことになったが、まだ【息子】が眠っている。5歳の子供を家に一人で置いていくわけにもいかないので俺が残る。小学校から妻が戻ってもまだ寝ぼけ顔の【息子】を、左右から2人がかりで無理やりお着替えさせて車に乗せて出発する。どこで用意したか、妻がローソンのおにぎりを【息子】に手渡す。ここで時刻は8時22分だった。この時間帯の道路では通勤の車が血走った顔で (って、車に顔はないとか、そういうことはともかく) ひしめいている。セミナーには10分ほど遅れてしまった。ごめん。寝坊したのは子供らだが、そうはいっても、子供の生活時間の管理は親の責任である。

あいかわらずお勉強のことで頭がいっぱいの妻は、納得いくまで詳しく調べるという意味でときどき「こっくり調べる」という。「こっくり」って、「こってり」と「ゆっくり」が合成されたような言葉だから、雰囲気はじゅうぶん伝わる。しかし、俺としては言わずにおれない...「こっくり調べるっていうのはもちろん、あいうえお表に10円玉置いて1文字ずつ調べるんよね?」... 妻はこういうとき「何それ?」なんて返事は決してしない。「そうそう。あっちの世界から情報をダウンロードする。インターネットでもわからんような思いがけないことがわかるんよ。このデータではt検定は使えんとか。」...ちゃんと乗ってきてくれるのでありがたいが、最後にはちゃんと自分の話題のほうへ軌道修正している。言いたいことをひととおり言い切るまでは、会話のイニシアチブをこちらへ渡すようなことはなにがなんでもしない妻である。「全部言うてしまわんと、言いたかった言葉が亡霊になって出てきて悩まされる っちゅうような勢いやな」と俺が感想を言うと、妻はわが意を得たりと「そうそう。そうなんよ!」と同意する。しかし考えてみれば、相槌とチャチャ入れくらいしかしゃべらせてもらえない俺のほうが、言いたかった言葉の亡霊に祟られそうだから、たまには俺の話もこっくり聴いてほしい。


2010年1月11日(月)/成人の日くもり

右の二の腕が痛む。きっと一昨日こどもと遊んだときに腕を酷使したせいだろう。【息子】を抱え上げて肩車し、それから体の周りを螺旋階段のように回りながら降ろす「ひこうきん旋回降下」をやったら【息子】が喜んで何度もアンコールされたのだ。あとで【息子】の体重を計ったら19キロあった。重くなったもんだ。わはは。ちなみに【娘】は24キロ。

そのようなわけで、なんという名前か知らんが上腕を上げる筋に痛みがある。肘をテーブルについたり後ろへ張ろうとすると特に痛い。利き腕が使えないというのは不便なものだが、それでも昼と夜の二食を俺が用意した。

長らく懸案だった地デジ対応テレビを購入。ついでに古いテレビ二台をリサイクル手続きしてきた。新しいテレビはパソコンのディスプレーとしても使えるので、死蔵されていたMac miniをつないで使えるようにした。普段は鍵が掛かるようにしたテレビ台の棚のDVDプレーヤーの隣にMac本体とキーボードを片付けておき、俺や妻の了解があれば子供も使えるようにする。子供用のアカウントにはある程度のペアレンタルコントロールをかけ、お楽しみソフトとしてTuxPaintをインストールしておこう。もちろん、このテレビには妻が懸賞で当てたWiiを接続してゲームもできるのだが、お楽しみは小出しにするに限ると思って、今日のところはWiiの開封は見送り。

きょうだって電器店のフロアにずらりと並んだテレビが大画面に軒並み刑事ドラマとバラエティー番組とTVショッピングの番組を映し出すのを見て10秒で帰りたくなったくらいで、俺はあまりテレビを見ない。(電器店で 「もっと面白い番組をやっているテレビをください」 と店の人に言いそうになったのは秘密だ。言ったら言ったで、こんどはCATVの契約を薦められたかもしれない。) だからテレビのハードウェアにもあまりお金をかける気がない。今度のテレビだって近頃の液晶テレビの中ではいちばん小さい部類の19型だ。それでも、前のテレビがモノラル音声の9型くらいだったので、子供2人が「こんどのテレビはおおきいねえ」と感激している。この子達だってこのあいだまでじいちゃんの家で大きなテレビを見ていたわけだし、お友達の家にも、もっと大きな画面のテレビがあるだろう。だからこの子達は世の中にはもっとずっと大きなテレビがあるということをちゃんと知ったうえで、家のテレビが新しく大きくなったことを喜んでくれているわけだ。なんというか、この程度で感激してくれる子供たちがかわいくて仕方ない。


2010年1月10日(日)くもり

午前中、教会学校へ行った【娘】を迎えに行くときに、街で振袖姿の女たちを見かけた。なんでも、松山ではこのごろ成人式を一日前倒しにしているそうだ。

午後は少し昼寝をし、ピアノを弾き、子供と遊び、田中久夫『鎌倉仏教』(講談社学術文庫)を読む。


2010年1月9日(土)くもり

先日ちょっと話に出た Gerald SacksHigher Recursion Theory (Springer 1990年) という本についてもう少し。名古屋の大学院生だった頃に、指導教官の篠田寿一先生がタイプ原稿のコピーを原著者からもらってきたのを輪講した。そのときのメンバーは篠田先生、米澤佳己さん、青木邦匡くん、それに俺の4人だったように思う。細かいマチガイがたくさんあったものを直しながら、少なくとも Part A: Hyperarithmetical Sets の部分は読み終えた。そのときのマチガイの訂正は篠田先生から原著者に渡っているはずだ。それで序文の謝辞には他の Recursion Theorist に混じって篠田先生の名が挙げられている。そのうえ この本の Part A は思いがけず長すぎると思う人がいるだろう。まるで人生が短いものではないとでも言うかのように、ぐずぐずと実効的超限再帰 (ETR, effective transifinite recursion) に手間取っているからだ。 などと書いてあるものだから、あまりに早くあっちの世界に行ってしまった師のことを思わざるを得ない。今年46歳になる俺は、Sacksのタイプ原稿を読んで議論したあの頃の篠田先生の年齢に、そろそろ達しようとしているのだ。先生のことを思うときばかりは、たいした業績も上げずにのうのうと生き延びている自分のことが恥ずかしくなる。俺は浦島太郎だ。まるで人生が短いものではないとでも言うかのように竜宮城で遊び呆けて、気づいてみればあまりに多くのものをみすみす失ってしまっている。

さてその俺が、許されてこれからも生きるとしたら、その間 (とくに何もなければあと30年くらい) にどれだけの本が読めるだろう。どれだけ前進できるだろう。時間を無駄にしていてはいけないと思う。そして、自分の気質と能力を思えば、あまり手広くやるわけにもいかない。基本に返って Recursion Theory を勉強するとしよう。とにかく今年中に廣瀬健『計算論』 と Higher Recursion Theory をしまいまで読む。それから Mansfield & Weitkamp とか Jon Barwise Admissible Sets and Structures を読もう。Jensen理論はその後でもよい。俺にはそのほうがよく理解できるように思う。

毎週土曜日のお約束として妻が学校に行っているので子供の面倒を見る。夕食におでんを作ったら好評だった。


2010年1月8日(金)くもり

天気のアイコンがずっと「くもり」なのはコピペで済ませているからではなく、本当に毎日くもりなのだ。そろそろパキっと晴れた空が恋しいぞ。

小学校と幼稚園は始業式。大学では年明け最初のセミナー。今回は関数や述語の形式的体系における表現可能性について。帰納的関数が算術の形式的体系(ペアノ算術)で表現できることの証明にとりかかる。これができれば、ゲーデルの不完全性定理まではあと一息だ。夕方は年明け最初のピアノのレッスン。歩数計カウント11,064歩


2010年1月7日(木)くもり

朝食の「牛すじ丼」はまあまあうまかったが、脂っこくて二杯めは食いきれず、おまけに夕方まで腹が減らなかった。

クリーネの不動点定理 (Kleene's fixed point theorem) あるいは再帰定理 (Recursion Theorem) という定理について。これは再帰関数の理論 (Recursion Theory) の基本定理として多様に応用される重要な命題で、ステートメントは簡明、証明もほんの数行ほどなのだが、この証明が何度勉強しても全然おぼえられない。「うそつきのパラドックス」やカントールの定理、あるいはゲーデルの不完全性定理の系譜に連なる典型的な対角線論法で、難しくはないが、なんだか手品みたいな証明なのである。

再帰定理はMoschovakisDescriptive Set Theory (North-Holland 1980/American Mathematical Society 2009) では定理7A.2, SacksHigher Recursion Theory (Springer 1990) では定理3.1, 廣瀬健の『計算論』(朝倉書店1975年)では定理30.2と定理30.3です。廣瀬先生の本の118ページには、この定理(30.3)の意味については同じシリーズの『計算論演習』に書くからそっちを見なさいとある。ところが結局この『計算論演習』は書かれずじまいだった。

てな具合に日本語と欧語を混ぜ書きにすると、助詞の の前に不自然に空白を置かないといけないのがちょっと気に入らない。あちらとこちらの書記方法の違いだから仕方がないのだが。

年明けに FreePascal のバージョン2.4.0が公開されたのでさっそくインストールした。とはいえこのごろはプログラムを書くということを全然していない。年末に今年のぶんの「お薬カレンダー」を自作しようとして、そういやあWindowsにはcalコマンドがないんじゃないかなあと思ったけど、Mac miniを起動して間に合わせてしまった。年末にはカレンダーがらみのちょっとしたプログラムがあれば助かるし、それに先日写真の整理で失敗したもんで、デジカメ写真データのExifヘッダを読んでファイル名を付け替えてくれるプログラムがほしいとも思っている。つまりプログラムを書く必要がないわけではない。ひとえに俺がナマケモノなだけだ。わはは。

妻子が帰ってきた。夕食は俺が担当。大根の煮たやつ。ひき肉の炒めたやつ、レタス添え。それに、大根葉を茹でてご飯にまぜてごま塩を振ったやつ。歩数計カウント9,132歩。


2010年1月6日(水)くもり

昨日に引き続き雲が多い。しかし雲の切れ間から射す陽光は明るく、寒さもほどほど。かと思ったら、夕方にはすこし雪がちらついた。どういう天気なんだか。

昨年復刊した 竹内外史『線形代数と量子力学』(裳華房, 1981年初版, 2009年第10刷) が届いた。本編は第一章が正規行列の対角化、部分空間の束、といった、線形代数の特論的な内容が63ページ。第二章がそれらの応用としての量子力学入門に47ページ。これに付録として「量子論理への誘い」というロジックに関する試論がついていて、その分量が53ページを占める。なかなか異色の本だが、本編は理系の学部で線形代数をひととおり学んだ人ならなんとか読み通せるはず。付録の部分はあの名著『集合とはなにか』(講談社ブルーバックス)と同様、竹内先生の思想がはっきりと出ていて、少し難しいがとても刺激的だ。学生時代から、折に触れて図書館から借り出しては、特に付録の部分を好んで読んでいた、いわば愛読書なのだ。古書店では小冊子ながらしばしばとんでもない値段がついていたりしたので、復刊して新品がそこそこお手軽な価格で(といっても165ページで3,700円だから決して安くはないが)入手できたのは大変うれしい。第一章が14節あるから後学期の三年生ゼミにちょうどよいかも。

歩数計カウント9,390歩。夕食はレトルトのカレーで簡単に済ませたが、それとは別に、毎度おなじみ牛すじの煮物をつくった。これで明日はちゃんと朝食が食えるぜ。


2010年1月5日(火)くもり

少々寝坊した。外は曇り空。しかし思いきって午前中のうちに洗濯物を干して出かけたら、けっきょく時々は晴れ間がのぞく天気になった。

さきほど arXiv.orgLogicセクションをのぞいてみたら、キューネン (Prof. Kenneth Kunen) の最近のプレプリント (Kenneth Kunen: Forcing Differentiable Functions, arXiv:0912.3733, 18 Dec 2009) の「証明終」のマークがこんなこと(PNG画像:600x400ピクセル72KB)になっていた。同じことを俺がやったら顰蹙を買うだけだろうが、キューネン先生のようなオーソリティがこういうことをなさるのはなんだかかっこいい。マーティン予想に関する新しい論文 (C.T.Chong, Wei Wang, and Liang Yu, The strength of the projective Martin conjecture, Fund. Math. 207, pp. 21--27) を読み始める。ずっと忘れていたが、そういえばこの論文のテーマに関連する話題で、学生時代から知りたいと思っていたこともあった。調べてみよう。

翌日追記: Chong-Wang-Yu のこの論文では, マーティンの \({\leq}_M\) 予想 が uniformly order-preserving \(\Pi^1_1\) function に関して成立することを仮定して \(0^\sharp\) の存在を導いている. そのために Harvey Friedman の集合 \({\cal F}\) というのを使うことになっているのだけど, 証明の中では, Turing同値関係のもとで不変な \(\Sigma^1_1\) 集合である, という一般的な性質以外は \({\cal F}\) の特徴はこれといって使われておらず, むしろ \(\Sigma^1_1\) Turing Determinacy の直接証明になっているように思われる. この論文で述べられているとおり, \(\Sigma^1_1\) Turing Determinacy と \(0^\sharp\) の存在とが同値であることは, 1980年ごろにLeo Harringtonによって (Friedmanの集合とSteel強制を使った少々込み入った議論によって) 証明されている. だとすると, この論文でFriedmanの集合 \({\cal F}\) を持ち出す必要は全然なかったということにならないか. (例によって俺の早とちりかもしれないが.)

夕方から市民コンサート機関誌作業。いいかげん足を洗いたいと思っているのは内緒だ。いよいよ事務所のパソコンがピンチ。スペック的に苦しいのもさることながら、ハードディスクがイカレている。急いでバックアップを取らにゃ。あんまりコミットしたくないけど、現在使っていないポータブルハードディスクを提供するくらいのことはしてもいい。


2010年1月4日(月)はれ

張り切って仕事再開。しかし街も職場も静かなもの。

昼間、仕事部屋にいると、じぃちゃんちに投宿中の【娘】からメール。【息子】がホワイトボードに「たしざんのもんだい」を書いたといって写真を送ってきた。

1+p=69+d+1
いろいろグチャグチャ書いてあるが
どうやら 1+p=69=d+1 というのが問題のようだ

p=d=68
数学者の父に算数で挑戦とは、大胆な倅だ
ただちに返事を送る

しかし、この返事では、問題のもつ美しい回転対称性が解に反映されていない。上の写真を180度回転させてみれば一目瞭然だ。

89=p=d
問題は 1+p=69=d+1 のままなのに
解は 89=p=d になってしまっている

シンメトリーな方程式を解いてシンメトリーを持たない解が得られたら、数学者としては ナニカガオカシイ と考えざるを得ない。これはつまり、そう、ガロア理論だ。などと一人合点しつつ、話は変わる。

小学二年生の【娘】は、正月を機に毛筆に興味を持ったようだ。しかし小学校の 書写 (という科目名は気に入らないがまあそれはともかく) の授業で毛筆を扱うのは三年生からだ。新年度に備えて共同購入するお習字セットは注文済みだがまだ届いていないので、それと別に買い与える気にもならず、いまは筆ペンで遊ばせている。

で、現代の親としては、毛筆をする機会なんて冠婚葬祭のときぐらいなのになんでお習字が必修なんだろうと疑問に思ったりもする。いわゆる 実社会で役に立たない というやつだ。鉛筆なりボールペンなりで硬筆の練習をすればいいじゃないか、という合理派の意見が出てきそうである。だが、自分の字のヘタクソさにあきれてボールペンで書き取りの練習をしてみて、毛筆の必要な理由を理解できた気がする。いま現在通用している標準的な漢字の形は古代中国の唐の時代に確立した楷書体がベースなのだが、楷書体は毛筆というものの存在を抜きにしては考えられず、きれいに書こうと思えば、トメ・ハネ・ハライといった筆の運びを意識せざるを得ない。となると、実地に使う機会がいかに乏しかろうと、一度は毛筆というものを体験しておくべきだということになる。すべての人に、標準的な字体できれいに (というのはつまり 他の人たちに読めるように) 字を書けるようになってもらうことは、学校教育にとって絶対的な要求事項で、その意味では、毛筆を体験して字体や筆順の意義を体得するというのは大変よいことだ。いっぽう、筆記具が毛筆からボールペンや鉛筆などの硬筆に換わったのだから字体のほうがそれに合わせて変わってしまえばいいのだ、というのも一理ある。そういう変化はいずれ必ず起こる。というより、おそらくただいま進行中だろう。ただし、それは学校の「外」での出来事であり、学校教育から毛筆が駆逐されるのは、もっとずっと後になるはずだ。

ちなみに、そのとき書き取りの練習に使った言葉は 琵琶湖 利害得失 離合集散 濫用 自意識過剰 それから 教師としての職分を全うするためには字が正確に書けなくてはなりません だった。あとで『旺文社小学漢字1006字の正しい書き方』で調べてみたら、とかの字の筆順を間違えて覚えていた。

帰宅後、届いていた年賀状のデータをスプレッドシートに入力。歩数計カウント10,509歩。


2010年1月3日(日)はれ

どういうわけか、《複雑に入り組んでほとんどひとつの街と化した集合住宅の夢》を時々見る。あるときは高級マンション。あるときは平安時代の寺院の大伽藍。あるときは巨大な雑居ビル。この人は俺をどう評価しているだろうという形でしか、他人というものが意識にのぼらない内向的自意識過剰精神の持ち主である俺が、どうして赤の他人との共存を含意するほかない集合住宅の夢を見るのか。かに座の星のなせるわざか、あるいはひょっとして集合論研究者の宿業というものか。

とかなんとか考えつつ、小松和彦の『異人論』を紐解きつつ、俺一人フェリーに乗って松山に戻った。妻は義母の介護のためにしばらく残る。当然のように子供らはそれに連れ添う。俺は明日から普通に仕事がある。一週間ぶりに戻った自宅は太古のジャングルと化し羊歯や芭蕉の繁り放題で、ゴキブリどもは巨大なカブトガニとなって這い回り、恐竜が跋扈し火山が火を噴いていた。そんなわけはないか。こういう嘘は夏場に言わないと面白くないな。とうとう一枚も書かずに年越しをしてしまった年賀状だが、一家四人のぶん合わせて五十二枚いただいたので、こちらからなんらか返事をせねばならん。しばらく待っとってください。


2010年1月2日(土)はれ

天邪鬼な俺は、あの「もういくつ寝るとお正月ぅ♪」というお正月の歌があまり好きでない。凧揚げをしろだの独楽回しをしろだの、大きなお世話である。おかげでうちの【娘】なんか、毬つきをお正月特有の遊びみたいに思い込んでしまったじゃないか。この歌、土地や家に固有の正月行事を押しのけて「国民の正月」を上書きしようという国家的陰謀としか思えない。だいたい、正月にどんな遊びをするかなんてのは、土地なり家系なりの伝承に従えばそれでよいことである。

もっとも、いまそれを言ってももう手遅れなのかもしれない。人々が「キツネにだまされなくなった」このごろでは、土地の伝統や家の伝承というものが絶え果ててしまっている。それで逆に画一化されマスメディアに乗せられたお正月のイメージから学ぶという話になっているような気がする。俺はもはやお正月というものを昼間からサケガノメル楽しくも自堕落な時間としか認識していないけどな。

ここでマスメディアと言ったのはテレビや雑誌といったいわゆるマスコミに限定されない。ある意味では小中学校の義務教育こそマスメディアだし、ショッピングセンターだって物流面でのマスメディアといえなくもない。そうでなければどうして節分に太巻き丸かぶりなんてことがこれだけ流行るものか。

昼飯に「パパラーメン」を作った。義父母も妻も子供たちも「おいしい」と言ってくれたが、自分ではまったく納得いかない。散歩がてら夕食に必要なものを買いに俺一人でスーパーへ。行ってみると春菊というものがもはや売り切れていた。売り場スペースにぽっかり穴が開き、値札が裏返されているという状態で、「お前さんの言うとおり、春菊というものも、かつてこの世にたしかに存在した。だが、それは2009年までの話じゃ。」と言わんばかりであった。こちとら、はるさめ、春菊、もやしというお買い物メモを見て今夜は鍋ものと早合点していたから、春菊の代わりに水菜を買った。帰宅してから妻や義母とよくよく話をしてみると、ラーメンのために作ったスープの残りに水を足して追加の具を入れて炊きなおして汁物にしようという、その追加の具を妻と義母がそれぞれ思いつくままに挙げたメモだったそうだ。つまり俺が料理をするのに必要だろうと妻と義母がそれぞれに先読みしていたということ。妻の家系はこのようにいつも親切な気のいい人たちばかりなのだが、まさか俺の料理のための買い物メモをわざわざ義母が作ってくれているなんて思わない。てっきり、すでに夕食の計画が決まっているものとばかり。まあ、妻との間にしばしば起こる認識のすれ違いである。

食材の買い物のついでに古本屋で買った山下洋輔『アメリカ乱入事始め』(文春文庫)を夕食後に読む。


2010年1月1日(金)/元日くもり

ときおり小雪もちらつく寒い元日となった。午後、近所の大星山公園へ。

大星山公園から海を見る
雲の切れ間からもれる光が神々しい

風力発電機
大星山には風力発電施設が数基ある
風車の中心軸の高さは約70メートル
このときの発電量は一基あたり約500kWだった

やる気のないあひるこれもやる気のないあひるこれまたやる気のないあひる

では今年も「てなさく世界」をよろしくお願いします。年頭の抱負と称して空手形を乱発するのももう八回目。だがこれも縁起物と思って続けるのです。今年はもっと読書します。ピアノの練習もちゃんとします。仕事ももっと真剣にやります。勉強も面倒くさがらずにやります。今年は妻が修士課程二年で修士論文の研究で大忙しになる予定だから、子供のめんどうもちゃんと見なくちゃ。料理のレパートリーも増やしたい。音楽のレパートリーも増やしたい。「てなさく世界」の読者も増やしたい。うおぉー。

後日追記:それよりなにより、サックスをやめて一年ほどで急に腹が出だした。年齢相応の変化だから、いまさら腹を引っ込めようとは思わないにせよ、それでも体調管理にはもう少し気をつけにゃならん。まあ、だからといって、それを年頭の抱負とする気にはならないので、少々うそ臭くても、ここは読書量増量とかそういう前向きな抱負を言わないといかん。というわけで、年頭の抱負。《自分と家族の健康に心を配りつつ、日々を前向きな気持ちと感謝の心で生活し、仕事をきちんとこなし、読書量と音楽の練習量を増やし、そのほかにも美術展に足を運ぶとかの文化的な活動もより積極的に行なってまいる所存であります。どうか今年もよろしくお願いいたします。》(1月4日)