て日々

2012年6月


2012年6月30日(土)くもり

朝6時前に新大阪でバスを降り、京都の実家へ。午前中、叔父さん叔母さんたちに実家に集まってもらい、亡父の四十九日法要。その後、妙心寺門前の精進料亭「阿じろ」で皆で食事。実家に戻って皆にコーヒーを飲んでもらう。親戚のみなさんが帰られてから、俺は一人で太秦広隆寺にお参りした。

広隆寺上宮王院太子殿
広隆寺の本堂である上宮王院太子殿
本尊聖徳太子像(秘仏)には、
歴代の天皇から天皇ご自身の束帯の下賜を受けて
その天皇の御代のあいだずっとその束帯を着せておく習わしがあるという。
その伝統がいまも続いているのかどうか、とても興味がある。

太秦広隆寺は、推古天皇の十一年(西暦603年)、この地に住む渡来系の豪族 秦河勝に、聖徳太子が仏像を下賜されたことに始まる古い寺だ。日本書記の記述と寺の資材交替実録帳の記述から、名高い国宝の弥勒菩薩半跏思惟像こそが、その時に下賜された仏像であることもはっきりしているという。したがって、この寺の由来は平安京よりざっと200年ばかり古いことになる。ただ、平安時代に何度か火災で消失して再建されたのではあるらしい。だから、飛鳥時代の二つの重要な仏像を擁しているいっぽうで、たくさんある国宝・重文の仏像の多くは、平安の藤原時代のものである。両者を見くらべてみると、その様式の違いは歴然たるものがある。飛鳥時代の弥勒菩薩は大陸様式の影響が濃く、簡素で形式化された表現であるのに対し、平安期の仏像はお顔の表情が少々芝居がかっている一方、圧倒的な肉感のある造形となっている。不空羂索観音菩薩立像や十一面千手観音立像などを近くから見上げると、そのボリュームに打たれ、心が揺さぶられるように感じる。いっぽう、弥勒菩薩半跏思惟像のお顔を見つめていると、菩薩さまがなんだか、今にも静かな声でしゃべり出しそうに思えてくる。身体の表現がひどく簡素化様式化されているのに比して、お顔がずいぶんと自然な柔和な表情であることが、その原因だろうと思う。

広隆寺を出て、実家へ戻る。兄が迎えに来て皆で夕食に行くまでにはまだ少し時間があるので、より道をして、木嶋神社へ行った。これも秦氏ゆかりの古い神社だ。正確な鎮座の年はわからないようだが、「続日本紀」大宝元年(西暦701年)四月三日の条に言及されているというから、これまた平安京に先立つこと100年くらい遡ることになる。ただし、社殿などは明治以降に建て替えられたものだという。

木嶋神社:拝殿

「鬱蒼とした」という表現がぴったりの木立に囲まれた簡素な社殿。周囲は住宅地として開発されきっているが、神社の思いのほか広大な敷地だけは、古代の森の面影を今に伝えている。元糺の池の泉は、いまでこそすっかり枯れてしまっているが、20年ほど前まではまだ自然に湧出していた。この泉を守る三つ組の石鳥居が、この神社のなによりの特徴だ。

木嶋神社:三つ組の石鳥居

実家に近い太秦の地は、このように、秦氏ゆかりの、したがって平安京より古い時代の文化遺産を数多く擁していて、俺はそのことが大変気にいっている。

夕食は肉が食いたいという母の鶴の一声で焼き肉。じゅうじゅうカルビ桂南店の食い放題。食事から戻って松山の自宅にいる妻と iPhone の FaceTime でビデオ通話。【娘】と【息子】の顔を母や甥姪たちに見せる。

歩数計カウント10,307歩。


2012年6月29日(金)くもり

海外出張中のD教授に代わって、朝一番の線形代数の授業の中間テストの監督をする。それから一旦帰宅して昼食をとり、少し昼寝をしてから、午後の授業に出かける。3年生のゼミ。きょうのテーマは可測単純函数の積分の基本性質と、可測函数を閉集合上の連続関数で近似するルージンの定理。それから歩いてピアノに行き、電車で帰宅して夕食。自宅と大学の間を一往復半、そして大学からピアノ教室まで、それぞれが4,000歩弱の道のりで、歩数計カウント17,036歩。夕食をとり風呂に入り子供たちが寝ついてからもう一度家を出る。今度は大阪行きの夜行バスに乗るためだ。


2012年6月28日(木)くもり

午前中、歯医者に行き、ついでに愛媛大学ミュージアムを観てきた。お目当ては、企画展示「子どもが生きる空間〜日土小学校と松村正恒」。小規模な展示ながら、狭い展示スペースを上手に使う工夫がとても面白かった。午後は県立図書館にも行って、本を借り替えた。それから、昨日ぶんの小テストの採点を済ませ、来週月曜日に大阪府立大学で話す内容を整理した。歩数計カウント14,817歩。


2012年6月27日(水)くもり

講義では「同相写像」と「位相不変量」の話をして、\(\mathbb{R}\) や \(\mathbb{R}^2\) の部分空間の範囲で、同相な位相空間の例をいくつも紹介した。開区間と開いた半直線と数直線全体は同相。半開区間と閉じた半直線は同相。すべての開区間どうし、半開区間どうし、閉区間どうしなども互いに同相だ。これらを示すには、つまりは同相写像を与えればいい。いっぽう、開区間と閉区間と半開区間はそれぞれ同相ではないのだけど、その証明は少しやっかいだ。二つの位相空間が同相で“ない”ことを示すには、同相写像がひとつも存在しないことを示さねばならない。そのときに役にたつのが「位相不変量」という考えかただ。次回以降は、重要な位相不変量のひとつである「連続性」について話をする、というところまで喋って、少し時間が残ったので、円周と区間が同相にならないことの証明を紹介した。次のような話だ:

円周 \(C=\{\,\langle x,y\rangle\in\mathbb{R}^2\,:\,x^2+y^2=1\,\}\) が区間と同相にならないことを示すには、円周から数直線への連続写像 \(f:C\to\mathbb{R}\) がけっして単射にならないことを示せばよい。このことを背理法で示すため、\(f:C\to\mathbb{R}\) が単射であったと仮定する。円周の東端の点 \(\langle 1,0\rangle\) から西端の点 \(\langle -1,0\rangle\) へ向うふたつの道 \[ \begin{align} \phi_1\colon [0,\pi]\to C & \quad\big(\theta\mapsto \langle \cos\theta,\sin\theta\rangle\big)\\ \phi_2\colon [0,\pi]\to C & \quad\big(\theta\mapsto \langle -\cos\theta,\sin\theta\rangle\big)\\ \end{align} \] を考えよう。ふたつの実数値函数 \[ g_i(\theta)=f(\phi_i(\theta))\quad(i=1,2) \] は両端点 \(\theta=0,\pi\) においてだけ値が一致するはずだ。また、 \[ s = \frac{g_1(0)+g_1(\pi)}{2}\quad\big(\,=\frac{g_2(0)+g_2(\pi)}{2}\big) \] とおく。区間上の連続函数についての中間値の定理から、\(g_1(\theta_1)=g_2(\theta_2)=s\) をみたすふたつの数 \(\theta_1\) と \(\theta_2\) がみつかるが、\(s\) は \(g_i(0)\) でも \(g_i(\pi)\) でもない値のはずだから \(0<\theta_i<\pi\) となっている。このことは、\(\phi_1(\theta_1)\) と \(\phi_2(\theta_2)\) が円周上の異なる二点になっていることを意味する。しかし \[ f(\phi_1(\theta_1))=g_1(\theta_1)=s=g_2(\theta_2)=f(\phi_2(\theta_2)) \] であるから、\(f\) が単射であるという仮定から矛盾が生じることになる。

それにしても、きょうの授業は出席者が普段より10人どころでなく少なかった。多くは教職課程がらみの実習にいっているのだろうが、理由はどうあれ寂しいものだ。

大学院ゼミは新井本の4章。稠密全順序集合のデデキント完備化の存在と一意性について復習した。


2012年6月26日(火)くもり

歩数計カウント6,384歩。右腕が神経痛。

1≥0∧0≤1
ゼミでの0-1くんの板書が、なんだかかわいかった。
にゃあにゃあ〜l≥o∧o≤l


2012年6月25日(月)あめ

一日中、降ってるんだか降ってないんだかわからないような小雨。呉智英『つぎはぎ仏教入門』(筑摩書房)をやっとこさ読んだ。読書にせよ小テストの採点にせよ、集中してしまえばなんでもないのだが、どうもその状態に到達するまでに時間がかかってしまっていけない。まあ、やる気が出ないのは全部、天気がよくないせいと、眼鏡が合わなくなってきたせいにしてしまおう。

で、仏教に興味があっていろいろ読んで知っている人(増谷文雄とか中村元とかの名前がわかる人)なら、『つぎはぎ仏教入門』はひとまず最後の章「仏教と現代」と、「あとがき」だけ読めばいいと思う。呉智英さんが「知人たちがあまりにも仏教について知らないものだから」と執筆したのがこの本だというなら、仏教について一般には本当に何も知られていないのかもしれない。呉智英の本だからという理由でこれを手にとる人のなかには、これで仏教について目からウロコが落ちる人がいるのかもしれないけれども、そういうウロコは、是非とも早いうちに落としておいてほしい。そういう意味で、お釈迦さまファンの俺は、呉智英という人が彼の読者に向けてこの本を書いたという点を評価したい。けど、呉智英の本としては、これはまたずいぶんおとなしい感じだ。

俺とてさして多くの仏教書を読破しているわけではないが、俺だったら、仏教について目のウロコを落とすために読む本としては、増谷文雄『仏教百話』(ちくま文庫)、それから秋月龍珉『誤解された仏教』(講談社学術文庫)を薦める。ベック『仏教 (上)第一部 仏陀』(岩波文庫)も好きだが、いまは手に入りにくいみたいだ。

2012年7月1日追記:この日の日記ではずいぶんあっさり片付けてしまったが、もう少し書くべきことがある。呉智英の評論活動は一貫して「インテリvs大衆」という軸で展開してきた、この『つぎはぎ仏教入門』で呉智英は、お釈迦さまの成道をめぐる物語のハイライトは「梵天勧請」にあるとみる。自分の覚った真理を人々は理解しえないだろうとお釈迦さまは思い、そのまま涅槃に入ろうかという考えに傾く。その心を知った梵天がお釈迦さまの前に現われて、人々のために教えを解くことを請い願う。梵天の言葉を聞き慈悲の心を生じたお釈迦さまは法輪を転じる決意をする。ここに、自らの苦しみを度する覚りの智慧と、すべての人を生存の苦しみから救う教えの慈悲とが、お釈迦さま自身の心に二つながら存在した。この二つの方向性は、お釈迦さまの入滅後百年ほどして、自分ひとりの覚りをめざす上座部と一切衆生への慈悲を説く大衆部への根本分裂として顕在化することになる。「インテリvs大衆」の問題は、仏教においては「覚りの智慧と慈悲」という形で現われる。この対立はお釈迦さま自身の初転法輪にまで遡る。これはだから、呉智英ならではの指摘だと思う。


2012年6月24日(日)あめ

朝飯の用意をした以外はほとんど一日寝てすごした。かがみさん第VI章演習問題(14)の解答を送ってくれたのでそれを公開した。

〜*〜*〜

それで特に書くこともないので、この一週間考えていたことを書く。テーマは「ルベーグ積分はやっぱり難しい」だ。

積分論は、微分の逆の積分をどう定義するのが至当かという議論。積分を定義する目的は、微分方程式やなんやかやをバリバリ解析して物理なり工学なりの実際の問題を解くことだ。仕事柄ときたま解析学の研究発表を聞くことがあるが、その内容は主として現実に観察される物理や生物や経済の現象に触発された問題への理論的アプローチだ。解析学が物理学とのインタラクションの中で発展してきたその歴史は、まだ生きていると感じる。その解析学にとって、「積分」は手段であって目的ではない。ところが、ルベーグの積分論では、函数の積分ひとつ定義するために、開集合だ\(G_\delta\)-集合だハイネ=ボレルの定理だと、数直線上の点集合論をかなり深く理解しなけりゃならない。

いまでは、測度から積分へ至る理路は抽象的積分論としてかなり見通しよく整理されてはいるが、数直線やユークリッド空間でのルベーグ測度を定義し、その基本性質を議論するには、やっぱり数直線上の点集合論に堪能にならねばならない。ところが、ひとたび積分が定義されてしまえば、実際の使用の場面ではそれはあくまで「あの積分」であり、具体的な函数の積分の値はなんら変更されない。もちろん、函数空間の理論やフーリエ級数の理論への応用にさいして、ルベーグ積分ならではの御利益があり、そのために、進んだ解析学ではルベーグ積分の理解が必須とされているが、それにしても、具体的な現実の現象をバリバリ解析したい人にとって、σ-加法族の抽象論はともかく点集合論となると、どうも無駄な遠回りと感じられるのではないか。

いや、その無駄な遠回りの部分こそが実は普段の俺の飯のタネで、「点集合論の遠回り感」は俺が解析学徒の考えを推測して言っているだけなのだけど。

俺は大学の学部3年生のころに抽象的積分論の部分を集中的に勉強してそれなりに理解したし、実数値可測基数の存在という仮説の実函数論への応用について学術論文を書いたこともあるくらいで、ユークリッド空間の点集合の理論についてはまんざら素人でもない。しかし、このごろ気付いたことだが、その俺にしても、ルベーグ測度の理論のうち抽象的測度論に還元してしまえない特質の部分の理解が意外にもアヤフヤであった。たとえば、ルベーグ測度重要な性質のうち、地味であるが最も重要なのが「区間のルベーグ測度はその長さに等しい」という事実だ。恥ずかしい話だが、初めてルベーグ積分を勉強して以来28年間。この事実の証明をちゃんと読んだり書いたりしたことがなかった。

それにもう一つ、2次元以上のユークリッド空間における合同変換のもとでの測度の不変性の証明も、実はあまりきちんと考えたことがなかった。当然そのあたりは事実として知っていてもどことなくアヤフヤであり、教壇に立って基本から講じるに足る理解ではない。それでもこれまであまり困ることがなかったというのが、上に書いた「ルベーグ積分の遠回り感」の傍証になってもいる。だが、俺にとってはルベーグ測度は積分論の部品ではなく、まさに飯のタネである。このままではいけない。

まあ、どちらも「ちゃんと考えたことがなかった」のであって「わからない」ということではない。曖昧なものの言いかたばかりで、「フジタはルベーグ積分がわかっていない」という印象を読者に与えるのもくやしいので、どのあたりがアヤフヤであったか書いておこう。次の命題は直観的にはアキラカに見える。

命題: 閉区間 \([\alpha,\beta]\) が有限個の開区間 \((a_k,b_k)\) \((k=1,2,\ldots,N)\) によって覆われているものとする: \[ [\alpha,\beta]\subset (a_1,b_1)\cup (a_2,b_2)\cup\cdots \cup(a_N,b_N). \] このとき、不等式 \[ \beta-\alpha \lt (b_1-a_1) + (b_2-a_2) + \cdots + (b_N-a_N) \] が成立する。

しかし、これを「長さ」の幾何学的なイメージに一切訴えずに証明するには、どうすればいいだろうか。ルベーグ測度はわれわれのもつ「長さ」の幾何学的イメージの明確化、すなわち近代的な数学の言葉で精密に述べなおすことを目指しているのだから、その前段階にあるこの命題について「直観的にアキラカ」では話にならない。実際の講義では、教育的配慮に基いて話を後回しにしたり省略することはあるかもしれないが、その場合でも、ここに本来ならばきちんと証明されるべき命題が埋めこまれていることを、講師は認識していなければならない。

開区間 \((a,b)\) の1次元ルベーグ外測度が \(b-a\) に等しいことは、ルベーグ測度の理論の要なのだけど、それを証明するには、なによりまず \(m^*\big(\,(a,b)\,\big)\geqq b-a\) という不等式を示さなければならない。(逆向きの不等式は外測度の定義からすぐに導かれる)開区間 \((a,b)\) を被覆する開区間列 \(\{J_n\}_{n=1}^\infty\) を考え、この被覆区間列から、閉区間 \([\alpha,\beta]\subset(a,b)\) を被覆する有限部分列を取りだし、上記の命題を適用する。すると、\(a<\alpha<\beta<b\) をみたす任意の数 \(\alpha\) と \(\beta\) について、差 \(\beta-\alpha\) が区間 \(J_1,J_2,\ldots\) の幅の総和に満たないことがわかり、結果として、不等式 \(m^*\big(\,(a,b)\,\big)\geqq b-a\) が示される。このように、「区間の測度はその幅に等しい」というもっとも基本的な性質の証明にしてからが、ハイネ=ボレルの定理に依拠している。実のところ、いまでは位相空間論に属するものとされるハイネ=ボレルの定理は、歴史的にはもともとこのような測度論的な考察のために考案されたものだった。

このあたりに疑問を感じて、先日ちょっと手元にある積分論の本で「区間の測度はその幅に等しい」という定理の証明がどのように扱われているか確認した。以下「定理」とはこのことを指し、「命題」とは上に述べた有限区間の幅についての不等式のことだとする。

溝畑茂『ルベーグ積分』(岩波全書)は、「定理」を有限被覆の場合に帰着させ「命題」は自明あつかい。
吉田洋一『ルベグ積分入門』(培風館)…「命題」を、高次元に容易に一般化できるフォンノイマンの論法できちんと証明し、「定理」を導いている。
伊藤清三『ルベーグ積分入門』(裳華房)は少々煩雑な手順で「定理」を外測度の一般論に帰着。
高木貞治『解析概論』(岩波書店)では、「命題」は自明あつかいのようだ。
新井仁之『ルベーグ積分講義』(日本評論社)…「命題」を有限個の基本長方形のサイノメ切りに帰着。
辻正次『実函数論』(槙書店)…これも同様に豆腐のサイノメ。
河田敬義・三村征雄『現代数学概説II』(岩波書店)…うやむや。
吉田伸生『ルベーグ積分入門』(遊星社)…これも結局うやむや。
寺澤順『はじめてのルベーグ積分』(日本評論社)…定義を工夫して「定理」が自明になるようにしている。
J.Yeh “Real Analysis” (World Scientific)…1次元の場合の「命題」をきちんと証明してる。
David M. Bressoud“A Radical Approach to Lebesgue's Theory of Integration” (Cambridge)…ううむ。この本は後述する俺の構想のかなりの部分を先取りしてしまっているようだ。タイトルどおり Radical な記述のせいで、「定理」や「命題」の扱いがどうなっているのか、ざっと見ただけではよくわからなかった。

以上は大急ぎで調べた結果にすぎず、見落しや勘違いがあるかもしれない。とはいえ、こうして見るかぎり、吉田洋一『ルベグ積分入門』(培風館)がこの件に関してはもっとも周到であるようだ。これは古いけれども評価の高い本で、序論の周到な説明でこのルベーグ積分論の遠回り感を軽減してくれる。もっと本格的に遠回り感の根本を撃つには、先日から取り組んでいる Thomas Hawkins “Lebesgue's Theory of Integration” (Chelsea/AMS) などの文献を繙いて、ルベーグ積分論がなぜ点集合論を巻き込みながら発展したか、その必然性を積分論の発展史から理解することになるだろう。

こうした積分論の沿革に、カントールの集合論の創始およびその後の発展を絡めて、いわば大河ドラマ的に著述できないものかと、俺は考えている。(とはいえ、肝心のルベーグ積分の理解がこういうテイタラクだから、いつになることやら。)


2012年6月23日(土)くもり

昼食のうどんを担当。それから「小松菜と油揚げの煮びたし」と「豆板醤もやし炒め」を作った。夕方にはきょう初日の土曜夜市に出かける。【娘】はおともだちのひなたちゃんと行き、俺と妻が【息子】を伴っていく。思いたって、ふ志や呉服店で男ものの浴衣を買うことにした。とはいえ、いまはお金がないので、月末まで取り置きしてもらう。7月にはいちど家族そろって和服で夜市に行くことにしたい。

きょう作ったお惣菜

今夜の夜市では、【娘】や【息子】の学校のおともだちに何人か遭遇した。【息子】が常々「面白い子がいるんよ」と話してくれる女の子が、実物を見てびっくり、とても可愛いおしゃれさんだった。これは意外だった。こりゃ【息子】、こんな美人さんを三枚目あつかいにするんじゃない。


2012年6月22日(金)はれ

妻に無理を言って、昼飯につきあわせた。道後のフジで弁当を買い、道後公園のベンチで食う。子供たちのことを少し話しあう。

フジの売り場などで、背の低いわが妻が試食品をもぐもぐしながら、てぺてぺてぺ、と歩いているのを見ると、なんというか、人の縁というのは不思議なものだと思う。その昔、俺はもっとすらりと背が高くて物腰が洗練された美女と結婚するものだと、俺自身を含む周囲の全員が思っていた。妻も俺に対してそんなような印象をもったらしい。それでも俺と妻みろりは縁あって結婚して二人の子供を授かり、とんがったり凹んだりしながらそれなりに生活して、いまではお互いに愛情をしみじみと感じている。身長も高くないし物腰も洗練されてないし、もぐもぐ&てぺてぺは客観的にはとてもカッコ悪いのだが、俺という割れ鍋にとって、妻みろりという綴じ蓋のそういう姿は実にカワイイ。そして、妻の知的センスと我慢強さは俺が生きていくうえでこの上なくありがたい支えだ。感謝。ひたすら感謝。毎日が愛妻感謝デー。(すまぬ。単なるノロケだ。)


2012年6月21日(木)くもり

ツイッター仲間のProofTheorist証蔵さん(現在鍵つきアカウントなのでリンクなし)のところに女児誕生。そして、昨年の今頃まで妻と一緒に仕事していた みーしぇん841さんが無事に男児出産。めでたいめでたい。さらにさらに、昨年10月に来日した タマちゃん(Tamás Mátrai)とアンナちゃんのところにも今月10日にはじめての子ソフィアちゃんが誕生したと連絡があった。これまたメデタイ。アンナちゃんは、昨年の来日時には妊娠2ヶ月の身で放射能騒ぎが喧しい日本にハンガリーからわざわざ来てくれたのだ。年度初めからの約束があったとはいえ、もし知っていたら主催者側の俺としてもキャンセルするように説得していただろう。来てもらえたことに改めて感謝するほかない。


2012年6月20日(水)くもり

大学院のゼミは新井敏康『数学基礎論』の第3章をひととおり読み終え、第4章に入った。第4章の最初の部分では公理的集合論の動機づけを説明している。その内容は明快なようで、読んでいてどうも落ち着かない。モデル理論や計算論でも集合の言葉を使うことを念頭において、メタ理論としての集合論がZFCを実質的に含むと言っているのかもしれないが、そのように明言はしてくれていないし、冪集合公理や選択公理まで含む集合論は、メタ理論としてはさすがに強力すぎる気がする。なんだか腑に落ちなくて、910くんの報告を聞いていてムズムズした。


2012年6月19日(火)あめ

台風が来た。愛媛県は雨は少し降ったものの、風はたいしたことない。普通にゼミをする。

割り箸鉄砲

このごろは貰わないようにしているのだけど、生協で弁当を買ったときにもらった割り箸が、仕事場に少なからず未使用のまま置いてある。そして、弁当には赤い輪ゴムがかかっていて、これも捨てるに忍びなくて残してある。あとはナイフが一本あれば、【息子】のために割り箸鉄砲を作ってやるくらいのことは朝飯前である。


2012年6月18日(月)あめ

なにしろ夜寝るときに蚊が多い。しかたがないので蚊遣りブタさん始動。

蚊遣りぶた


2012年6月17日(日)あめ

午前中は小学校の授業参観。【娘】の学年(5年生)は来月の野外活動イベントの準備として大三島のことを調べその内容をプレゼン。【息子】の学年(2年生)は近所の商店や会社にいって調べたことを報告する「町たんけんレポート」だ。【娘】の発表を聞いてから行けば【息子】の発表に間にあうはずだと踏んでいたが、実際には完全に時間が重なっていた。そうと知ってりゃパパとママの二手に別れて攻めるところだったのだが、うっかり一緒に行動したせいで【息子】の発表を見れずじまい。ごめん。

【娘】の班の発表は大三島の自然について。鷲ケ頭山といえば、大三島にそびえる神々しい姿の430メートルの山。大山祇神社の御神体ともなっている、いかにも神さまが住んでそうな山である。これを【娘】が紹介した。なにしろ紹介している物が物だけに、【娘】は「わしがとうさん」と連呼するのだが、そのたびに俺の頭の中では「儂が父さん」と自動変換される。そしてそのたびに「トウサンはワシやないか、お前はムスメやないか」と頭の中で自動的にツッコミが鳴り響く。ダジャレ好きオヤジの自制心が試される場面だった。

次の時限には妻は【息子】のクラスの授業に行った。俺は5年生の【娘】の保護者として、野外活動の説明会に出る。引率の先生の紹介のあと、児童たちが班ごとに自己紹介をする。最初の班の班長はこの日記でも何度か登場しているゆうちゃんだ。ゆうちゃんが前に立っただけで、保護者席から「かわいいわぁ〜」と嘆息が聴こえる。相変わらず利発でかわいい愛されキャラである。まあそれはともかく、パパは「荷造りは自分でする」「【娘】は乗り物酔いするので薬を忘れない」「バーベキューのときカラスに肉を攫われないように注意」と、しっかりメモして帰ったのだった。


2012年6月16日(土)あめ

昼食はパパラーメン。スーパーに行ったらたまたまチャーシューが安くなっていたので、チャーシュー麺になった。スープにちょっと自信がなかったが、食ってみたらまあまあ問題なかった。

なにしろ日記の日付が連続していないことにはCGIがまともに動作しない。きょうになって月曜日からこっちの6日ぶんの日記をまとめて埋めようとしたらなかなか大変だった。やっぱりサボってはいけないな。せめてメモ書きくらいは残しておかないと。

たこりんご
俺の雑記帳に娘が描いたもの
オリジナルキャラクター「たこりんご」


2012年6月15日(金)あめ

大学生が主体的に学ぶように指導を強化しなさいと文部科学省が大学に指導を強化していると聞く。主体性の強制とはなんだか悪い冗談みたいだ。

俺の周りからだって、自発的に学ぶ学生が絶滅したわけではない。放っておいても自分で勉強を進めどんどん勝手に進歩していく、そういういわば野生種の自主勉クラスタに属する学生はいつでもいる。ただし、昔から、その数はそれほどは多くない。そして、その「野生種の自主勉クラスタ」の範囲を越えて大多数の若者が大学で自発的に学ぶかどうかについては、世の中が右肩上りかどうか、希望をもてるかで決まるんじゃないのかと、俺は思っている。

体位的にも精神的にも十分に成長できるはずの18年を経過して、なお大学でまで学ぶことが、将来へ希望を繋ぐということでなかったら、いったい何だろう。ところが、社会の現状はというと、世界規模の金融不安、産業構造の空洞化、出口の見えないデフレ、減給と増税である。卒業後の希望がないのに大学に来て、そこでの学びに、彼らはいかにして悦びを見いだすことができるだろうか。

それに、18歳〜22歳というエネルギーにあふれた年代の人たちの大多数を社会から隔離し、少なからぬ社会資本を投下してさらに教育をするというのは、並大抵の成熟度の社会ではできないことなんじゃないだろうか。この社会に、本当に大多数の若者を大学にプールしておくポテンシャルはあるのか。教育ローンでむりやり回さなきゃならんのは、実際には社会からそれだけのエネルギーが失なわれているということではないのか。これからの時代、若者たちはどう生きるべきなのか。

いや、後ろ向きのことばかり書いていてはいけない。俺だって、社会の現状とか国家の先行きとかとは別の問題として、いまここにいる学生さんたちの学ぶ意欲を喚起する必要があることはおおいに認める。

…というわけで、3年生のセミナーである。寺澤順『はじめてのルベーグ積分』(日本評論社2009年)の第4章。今回の内容は、ルベーグ測度の正則性。

任意の集合を外側から開集合によって外測度の意味でいくらでも近似できる \[ \forall S\subset\mathbb{R}\;\forall \varepsilon>0\;\exists G:\text{open}\;\Big[\, S\subset G,\quad \mu^*(S)\leq \mu(G)<\mu^*(S)+\varepsilon \,\Big] \] というのは外測度の定義からあきらかだが、 \[ \forall \varepsilon>0\;\exists G:\text{open}\;\Big[\, S\subset G,\quad \mu^*(G\setminus S)<\varepsilon \,\Big] \] となるためには \(S\) が可測集合でなければならない。両者の違いは初学者にはわかりにくい。ましてや、この事実を可測集合の内側からの閉集合による近似の可能性や、あるいは可測集合 \(S\) に対する \[ F\subset S\subset G,\quad \mu(G\setminus F)=0 \] をみたす \(\mathrm{G}_\delta\) 集合 \(G\) (等測包)と \(\mathrm{F}_\sigma\) 集合 \(F\) (等測核)の存在へと結びつけるというのは、抽象的な数学を学びたての学部生には、まだ決して自明なことではない。

早いところ積分を定義して解析の問題をバリバリ解きたいと思っても、ルベーグ積分論では最初のうち“なぜか”点集合論ばかりやらねばならない。目的がわかりにくい。それもあって、このあたりをゆっくり勉強するのはけっこうな根気がいることだ。このゼミの4人のうち早いうちに戦力外となった1人を除く3人は、さいわいそれなりに向学心があるが、彼らにとってまったく新しい分野であるこのテーマのゼミを指導するには、単に間違いを指摘し訂正させるとか理解の深さを見るために試問する、というだけでは十分ではないと思う。函数の積分をしたいのにナゼ点集合論なのか。そのあたりの話を補って導いてやらねばならん。

あと、この寺澤さんのテキストにあるシュタインハウスの定理の証明はとても印象的だった。恥ずかしながら、シュタインハウスの定理といえば、俺はルベーグの密度定理のコロラリーとしか認識していなかった。テキストでは、対象を正測度の有界閉集合に限定することにより、密度定理などの難しい道具立てを必要とせずに初等的な議論で証明ができる。そして、可測集合の正則性によって、一般の場合は有界閉集合の場合になんなく帰着される。見事だ。

ピアノのレッスンはお休みだった。


2012年6月14日(木)くもり

はてさてどんな日だったかな。(2012年6月16日土曜日記入)

そうそう。ひさしぶりに松前町役場へ行ったのだった。午前中に妻の車で行き、俺は町民課で証明用の書類一通を出してもらい、その間、妻は元の職場である保健センター窓口で旧交を温める。それから、二人で土居田の天下一品で昼飯を食う。そのあとは、俺はこんどは別の書類を貰いに松山市役所へ。妻は堀之内で開かれたなにやらの会議にNPOの一員として出向いていった。午後からは普通に研究室で仕事をしたが、帰りはまた妻に車で拾ってもらったので、いつもよりずいぶん早かった。


2012年6月13日(水)はれ

せっかく妻が作ってくれた弁当を忘れて仕事に来てしまった。それで午前中の講義のあと食いに返り、ついでに玄関の電球の交換などのミニマムな家事を片付けて、14時40分からの大学院ゼミに合わせて大学に戻った。玄関の電球は半月ほど前に切れていて、夜に玄関で靴を探すのが少々不便になっていた。ところが、天井の電球の交換は、うちでは俺にしかできない。俺が昼間あまり家におれないのをいいことにずるずると伸ばしてきたが、きょうはいい機会だ。近所のスーパーでLED電球を買う。もとが100ワットの白熱電球のところ12ワットのLED電球なので、けっこうな節電である。電球自体も長持ちする。

午前中の位相の授業では、位相空間の言葉で写像の連続性の定義をして、従来の \(\varepsilon\)-\(\delta\) による数直線上の函数の連続性の定義が、この新しい定義と同等であることの証明を、かなり丁寧かつ情熱的にやった。レポートの提出期限なので回収のための適当なダンボール箱を持っていこうと思ったら、3年前に結城浩『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』の献本をもらったときのソフトバンククリエイティブの箱がちょうどよさそうだった。それでまあ、ついでのことにと、新刊『数学ガール/ガロア理論』も教室に持っていった。ひとこと紹介できたらいいなと思ったのだけど、さすがにその時間はなく、教卓に置いて授業をするだけだった。それでも、授業のあとに学生さん=リアル数学ガールが「先生これなんですかぁ」と聞いてきたので、ちょっとだけ宣伝し、3年上の先輩たちの名前が「ゲーデル」の謝辞に載ってるんだよ、という話もしてきた。

大学院のセミナーは、第二不完全性定理の前提となるテクニカルな部分。前原本でいうところの《原始帰納的関係の強い意味の表現可能性》に相当する部分。前原本では方針を示しただけだったこの部分だが、新井本ではきちんと書いている。とはいえ形式的体系自体が新井本と前原本では同じでなく、このあたりの話を見通しよくするためかどうか、新井本では原始再帰的函数の名前をすべて定数として持っている言語においてそれぞれの原始再帰的函数の定義を公理として含めた算術で議論している。このおかげで、第二不完全性定理が成立するための前提となる条件はかなり明瞭になってくる。では、前原本の体系(すなわちラッセル&ホワイトヘッド流の型の理論)や公理的集合論はこの前提条件をみたすのか。そりゃあ、みたすはずなのだが、そういう詳細をきちんと書いた教科書が、いままで存在しなかったのだ。大学院生910くんには、今後そうしたあたりを追求してもらうとよいかもしれん。ふむ。


2012年6月12日(火)はれ

今日の話題は論理の「ならば」について。命題論理の式 \(p\rightarrow q\) にあらわれる含意記号 \(\rightarrow\) は、数学ではとても重要なのに、とても理解しにくい。二つの命題を結合して第三の命題をつくる演算子として \(\rightarrow\) を考えるかぎり、それを「ならば」と読むのは適切でないかもしれない。

というのも、なんらかの事態に対する判断を述べる命題と、その成立/不成立を述べる命題とでは、言及している対象が違うからだ。たとえば、「3は素数である」という命題は整数の理論の命題だが、「『3は素数である』は正しい」は整数の理論“の”命題ではなく、整数の理論“についての”命題である。なので、たとえば \(p\) と \(q\) が整数の理論の命題だったとしても \(p\rightarrow q\) を《\(p\) が成立しているときには \(q\) も成立している》と読むかぎり、それは整数の理論“についての”命題すなわちメタ理論の命題ということになってしまう。しかも、\(p\) や \(q\) が命題、すなわち成立しているかしていないか二つに一つの判断を述べた文であり、とりわけ \(p\) と \(q\) の真偽が確定しているものとすれば、両者を \(p\rightarrow q\) という形に結びつけたところで、この第三の命題は《\(p\) が成立しているときには \(q\) も成立している》という条件文の意味をもたない。

つまり、日用の言語表現の場合と同じく数学でも、\(p\rightarrow q\) という論理形式を使いたくなるのは前件 \(p\) の成立/不成立が確定していない場合なのだ。だからたとえば \(p\) と \(q\) が命題ではなくて、なんらかのもの \(x\) の属性についての陳述 \(P(x)\) と \(Q(x)\) であった場合には、\(P(x)\rightarrow Q(x)\) は《\(P(x)\) をみたす \(x\) は \(Q(x)\) をもみたす》と読めて、メタ理論へ逸脱することはなくなる。たとえば「3以上の素数は奇数である」は形式上 \(\rightarrow\) を含むが整数の理論の範囲内で完全に理解できる。

これは、命題 \(p\rightarrow q\) が \((\neg p)\lor q\) と同値かそうでないかとか、\(p\) が偽のときは \(p\rightarrow q\) は真だ、とかいうのとは、また別次元の話だ。だから、現役の数学者や数学教師がみなこの手の議論に興味を示すわけではない。日本語の話者がみな日本語の文法や語法について筋道を立てて考えているわけではないのと同じことだ。でも、仕事で文章を書く人が文法や語法を意識したほうがいいのと同じように、数学の文章を書いたり読んだりするときには、本当ならこういう「論理学の細かい話」を気にかけておくべきだと思う。

ところで、こういう話については俺よりもカダくんのほうが一家言ある。「て日々」ではカダくんと気安く呼んでいるが、彼はあの 『論理と集合から始める数学の基礎』(日本評論社) の著者である。カダくんはこのごろツイッターで活発に発言している。数学に頻出する論理的な言い回し、「ならば」とか「すべて/任意」の用法について意見など参考になる発言が多い。アカウントIDはそのものズバリ kadamasaru だから、まだの人はフォローするように。


2012年6月11日(月)はれ

子供たちを朝7時の電車に乗せてやりたい。それでみなでバタバタしたが、先に準備のできた【娘】だけが7時に間に合い、【息子】は一本あとの、いつもの電車になった。それで俺は【息子】と同じ電車に乗って小学校まで行き、それからいきつけのカフェでコーヒー。

それでなにが言いたいかというと、妻も俺が7時前に家を出るだろうという想定で弁当を作ってくれていた。ありがたいことだ。

なかなかほどけなかった弁当の包み

で、お昼になってその弁当の包みを解こうとすると、これがなかなか解けない。いったいどういう結びかたをしたのか、この結び目を解くのに3分くらいかかってしまったのだった。空腹時に弁当を目の前にしての3分は長いよ。

(本日の雑考) 二つの立体が境界面を挟んで接している時に、それぞれが相手のことを単純な二次元的存在と思っているとしたら滑稽なことだが、俺はそういう滑稽な思い違いをしばしばしてしまう。立方体を外側から見るとき、同時には3つの面が見えるだけだが、それでも固定された視点から見える3つの面が立方体のすべてだと思ってはいけない。それと同じように、自分が現実の次元からいくぶん遊離した時空を生きていると思うひとは、自分の出会う他の人にも同じくらいくらいの奥行きがあるんじゃないかと想像してみるべきだ。誰もが多少なりとも無理をして生きている世界で、周囲の人々とうまくコミュニケーションがとれないことを、無駄なプライドの肥やしにしないように気をつけないといけない。公共的な現実べったりの一平面に還元できない奥行きを持つこと自体は、なんら特権的なことではない。それでも、公共的な現実から遊離した次元でしか生きられないと思うならば、必要に応じて公共性の次元に降りたつ努力を意識的にしないといけない。つまり自分が他の人とってわかりにくい存在であることを十分に自覚し、他の人と共同作業をする場面においては、意図的にわかりやすい態度を取るべきだ。以上、自戒でもあり、誰とは言わないがツイッターで時々見かけるある種の傾向の人々への警告でもある。


2012年6月10日(日)はれ

とてもいい天気で風も心地よく、一日じゅう快適だった。子供たちが久々に教会学校に行っているあいだ、俺は県立図書館へ行く。あいかわらずルベーグの積分論を中心に本を探すが、キーワード「ルベーグ積分」では3冊しか検索にかからない。そのうち二冊を借り出す。子供たちは子供たちで、コミセンの図書館 (松山市立中央図書館) に行く用もある。本当は昨日、KOUJIで昼食をとったあと行くはずだったんだが、出掛けるときに【娘】が返すべき本を持って出るのを忘れていたことが飯を食い始めてから発覚。取りに戻るのもなんだかなあ…となったのが、そもそも内子までドライブする話の発端だったのだ。きのうのきょうだから、さすがの【娘】もコミセンの図書館の本を忘れずに持って来た。が、今度は図書館のカードを忘れたらしい。俺はこちらの図書館でさしあたり借りたい本がないので、【娘】にカードを使わせてやることにする。同居家族はカードを融通していい決まりなのだ。【娘】にカードを持たせて俺は外へ出る。

コミセンの風景#1 コミセンの風景#2
コミセンのベンチで一息。
いい天気で気持ちよかったが、快適さは写真に撮れない。
それにしても、昨日といい今日といい、
天気さえよければお金をかけずに楽しめるものではある。

木陰のベンチに腰をおろして、県立図書館で借りた志賀浩二『無限をつつみこむ量〜ルベーグの独創』(紀伊国屋書店)を開く。『無限からの光芒』(日本評論社)に多大な影響を受けている俺としては、志賀先生の著書のような本を書くことはおおきな夢であり、その意味で志賀先生は遥かな目標というべき存在だ。だが、それでも俺は『無限をつつみこむ量』のところどころに見られる志賀先生の考えには反対の立場をとらざるを得ない。たとえば、ひとが面積や体積の計測に無限を持ち出したことでかえって量は計測を越えた固有の概念としての本性をあらわしはじめたという見解も、また、その測度論がルベーグの独創になるということも、俺には同意できかねる。だがそのようなことはすべて、俺が自分で資料を読みこんで自分の見解を詳らかにする中で明らかになっていくべきこと。自分の仕事をせずに他者の見解を云々するのは控えなければならん。

妻子が図書館から出てきたので、このほど新装開店した JAえひめ太陽市(おひさまいち) へ移動。リニューアルしてずいぶん店舗が拡大して、いまどきの郊外型スーパーマーケットみたいな作りになっている。物見高いは人の世の常で、けっこうな人出だった。生産者直送の新鮮な野菜を売る農協直営店というのは、余計な物流の段階を抜きにして生産者と消費者のニーズが直接マッチングされる、取引の基本に忠実な市場らしい市場で、そう思うとなんだか気分がいい。イオンやフジグランもいいが、この太陽市にもがんばってほしい。ネギやらジャガイモやら買ったが、予定していたもち麦うどんは都合により夕食に延期。


2012年6月9日(土)くもり

ばうの実家『コーヒーレストKOUJI』で昼食を食ってから、思いたって内子町の「フレッシュパークからり」までドライブ。子供たちは河原で遊び、妻はオープンテラスで書きものをして、それぞれ充実した時間を過ごしたようだ。もち麦うどんを買ってきたので明日の昼に食うことにする。

フレッシュパークからり#1 フレッシュパークからり#2 フレッシュパークからり#3

帰り道、県立中山高校で開催された「中山ホタルまつり」に寄る。じゃこ天やイノシシのチャーシューといった特産品をはじめ、たくさんの出店が出ている。アトラクションは らくさぶろう の司会で、伊予高校の吹奏楽演奏などなど。


2012年6月8日(金)あめ

きょうは一日、小雨が降ったりやんだり。

三年生ゼミ。2009年の第1刷と2011年の第2刷でテキストの内容が違うのはやっぱり厄介なので、版元の営業部に電話して話をつけ、大学生協経由で交換してもらうことにした。こういうことにきちんと対応してもらえるのは嬉しいことだ。日本評論社さん、面倒なこと言ってすみません。ありがとうございます。

ピアノのレッスンのあとジュンク堂に行って本を何冊か買う。先月18日に行ったときにやっていた技術評論社の「知りたい!サイエンス」フェアはまだ続いていたので、レジでお支払いのついでに写真を撮る許可を頂いた。ジュンク堂さん、ありがとうございます。反対側の棚では オーム社の「マンガでわかる」シリーズ を中心とした科学書フェアをやっていた。『マンガでわかる基礎生理学』は妻におすすめかもしれん。

ブックフェア 魅了する無限

買った本は3冊。齋藤正彦訳『シュバレー リー群論』(ちくま学芸文庫)、J.S.ミル『大学教育について』(岩波文庫)、佐々木隆治『マルクスの物象化論 - 資本主義批判としての素材の思想』(社会評論社)。あれも読まんならん。これも読まんならん。むむむむむむむむ。


2012年6月7日(木)はれ

きょうは、歯医者に行き、キューネン本の解答の公開作業もし、学生を呼び出して面談もし、一年生向け全学統一英語テストの監督もした。そんなわけで、いつもの木曜日と比較してけっこう「働いた」ように思う。

次のPascalコードは診断メーカー「ひらいずみ」という診断を作るためのデータを準備する目的で書いたもの。順列生成のコードをちゃんと書いたのは、恥ずかしながらこれが初めてだ。

program Hiraizumi; type Data = string[4]; DataArray = array[0..4] of Data; procedure Dump(s:DataArray); var i: integer; begin for i := 0 to length(s)-1 do write(s[i]); writeln end; procedure PermuteAndPrint(s:DataArray;n:integer); var i:integer; t:DataArray; tmp:Data; begin if ( n <= 1 ) then Dump(s) else begin PermuteAndPrint(s,n-1); for i := n-1 downto 1 do begin t := s; tmp := t[n-1]; t[n-1] := t[i-1]; t[i-1] := tmp; PermuteAndPrint(t,n-1) end end end; var myDataArray:DataArray = ('ひ','ら','い','ず','み'); begin PermuteAndPrint(myDataArray,5) end.

他に 「ひらいずみではない」という診断も作った。診断を作るのは簡単だが、それだけにアイディアを問われると思う。こういう内輪ネタはもうヤメにしよう。よほどいいアイディアがひらめいたら、また何か作ることにする。


2012年6月6日(水)はれ

金星の太陽面通過の日。いい具合いに晴れた。遮光板を通して太陽を見ると、小さな小さな黒い穴がぽつんとあいているように見える。わが理学部では特別にきょうの午前中キャンパスで観測会を開催するという。それで、10時半からの位相の授業を定時より30分早く切りあげ、観測会の宣伝をして「今回見逃したら次はもう百年間見れないそうだから、まあ見てきなさい」と促した。

「興味ねえよ」って人もまあ自分の目で実際に見てみなさい。それでやっぱりしょうもないと思うなら思えばいい。「どうせしょうもないやろから行かんかった」と「行ったけどやっぱりしょうもなかった」とでは全然違うからな。

これは10数年前、義弟ヨースケくんが成人式に行くかどうか迷った時に俺が言ったのと同じ言葉だ(オッサンになると昔話が多くなっていかんな)。薦めに応じて、けっこうな数の学生さんたちが見にいったようだ。まあ、教師のハシクレとしては「それでも俺は数学をやるんじゃ」という偏屈もんがいた場合のために、授業終了後10分ほど様子をみていたが、部屋に残っている学生さんはみんな昼飯へとスムースに移行していたようだったので、安心して(?)自室へ引きあげた。

午後は大学院のセミナー。新井本の3.3節。不完全性定理の証明の泥臭い部分。数学基礎論を学ぶ人は、一度はここをきちんと通過せにゃならん。


2012年6月5日(火)くもり

集合論で《\(\;x\) は \(S\) の要素に属する》と言ったら、\(S\) は何か集合の集合で、そのなんらかの要素 \(a\in S\) について \(x\in a\) が成立すること、すなわち、\(x\) が \(S\) の和集合 \(\bigcup S\) の要素であるという意味にうけとれる。しかし、きょうのゼミで0-1くんが《\(\;x\) は \(S\) の要素に属する》と言った箇所は、どうもストレートに \(x\in S\) と言わねばならない文脈だった。それで考えてみたのだが、《箱に入れる》とか《外に出る》というときの “に” の用法のほかに、《嫁にもらう》とか《バカにする》といった “に” の用法もある。前者は《…に行く》に代表され後者は《…になる》に代表される。《\(\;x\) は \(S\) の要素に属する》を前者の意味に取れば \(x\in\bigcup S\) となり、後者の意味に取れば \(x\in S\) というわけだ。問いただしてみると、実際0-1くんは \(x\in S\) というつもりで《\(\;x\) は \(S\) の要素に属する》と言っていたのだった。

つくづく、言葉というのは面白いものだ。

こういうとき「日本語はあいまいでケシカラン」とか「自然言語はあいまいだからものごとは数式で表現せにゃ科学的でない」とか言いたがる人がいるようだが、俺はそういう意見に与しない。現に俺はゼミの途中に《\(\;x\) は \(S\) の要素に属する》という表現の曖昧さを指摘し、数式を使うことなく0-1くんにその真意をただすことができた。ゼミのテキストは英語で書かれているがゼミ自体は日本語でやっているのだから、その気になりさえすれば、日本語でのコミュニケーションから曖昧さを取り除くことは可能なのだ。日本語があいまいな言語でありそれがケシカランのではなく、言葉を曖昧につかう文化というものが、場合によっては不都合になることもある、という話なのだ。数式を使わにゃ科学的でないという意見も、同様の理由で採用できない。

科学的・客観的な言葉づかいというトピックについては昨年5月9日の日記にも少し書いたので見てください。


2012年6月4日(月)くもり

俺が大学一年生の頃というのは、1983年だから、いまから29年前だ。「力学I」の授業は、当時の衣笠キャンパスの理工学部6号館3階の、200人くらい入りそうな大部屋で、金曜日の午前中10時半から12時という時間割だった。お名前は失念したが、非常勤の老教授の熟達した見事な講義だった。逆二乗則の場での運動、速度に比例した抵抗を受ける運動、単振り子の運動などなどの標準的な例題を、古典的なニュートン形式の微分方程式をもとに解析する、まあ伝統的な古典力学の初歩の授業。難しい数式の羅列の最後に時折挿入される「…となることが、アキラカであろうと思います」という決まり文句に、俺たち一年坊主は「どこがアキラカやねん」と小声で突っ込みを入れながら聴講したものだった。(学期途中から、俺にとっては午後のフランス語文法クラスの予習の時間となったが。)

いま大学で講義をしている先生たちが学生だった頃から、「…となることがアキラカであろうかと思います」は講義の決まり文句だった。そして、当時から、数学の教科書には「これは容易に示される」「この証明は読者に委ねる」などの決まり文句が登場していた。そして「そう言わずに書いといてくれよ、こちとら、わかんねぇからこそ勉強してんだよぉ」という読者のボヤキのほうだって、昔も今も変らない。

それでは、なぜ、すべての論証を書き切った「究極の教科書」が登場しないのだろうか。論証の全てのステップを余すところなく記載すれば、読めば誰でもわかるものになるはずではないか。

理由はいろいろ考えられるが、なにより、そんなものは読めた代物ではない、というのが一番だろう。

たとえば家から大学へ歩いていくとして、その動きを、両足の運びかたと体重の移動のようすとして記録されたのでは、その瞬間瞬間にどう身体が動いているのかはよく理解できても、どういう意図でどこへ行こうとしているのかはさっぱりわからないだろう。これと同じように、数学におけるすべての論証を、論理の筋道のみならず、数式の変形の機械的なパターンマッチングの部分まで全部克明に書かれたら、一歩一歩のステップはきちんと理解できても、急所となるアイデアがどこにあり、全体の話はどこに発してどこへ流れていくのか、全体像を捕むことはほとんど不可能になるだろう。ところが、数学の本の著者が伝えようとしているのは、証明の細部もさることながら、むしろ、その全体像のほうなのだ。

おまけに、証明を詳しくすると、話は長くなる。本がどんどん厚くなる。「まんが日本昔ばなし」を、老夫婦の家から川辺の洗濯場までの距離、桃太郎の出生体重、黍だんご100グラムあたりのカロリーと栄養成分、雉の尾の長さ、鬼ヶ島行きの船の排水トン数、等々といった詳細データで埋めつくすわけにはいかない。どうしても、細部の省略が必要になる。

そういうわけで「これは容易に示される」「この証明は読者に委ねる」の登場となるわけだが、実はこれらの決まり文句は、「ここに埋められるべき細部が残されている」という標識である。いろいろの事情で細部を埋められなかったけど、自分でなんとかしてね、ゴメン、という標識。もちろん、本当に簡単に埋められる場合もあるし、実はひと仕事必要な場合もあるが、細部を埋めずに残した著者のうしろめたさのあらわれとして、「だけどすぐ埋められるから、簡単だから、ちょっとだけ。ね、ね、」という言いわけ的な心理として「容易に示される」という表現になる。

でも、この標識があるぶん、まだ親切なのである。

上に言ったような理由で「いくらなんでもこれくらいは本当にアキラカだろう」というような細部は省かないといけないわけだが、「力学I」の講義で経験したとおり、なにを「アキラカ」とするかは人それぞれだ。言いかえれば、なにを「アキラカでない」とし、もっと細部を埋める必要があると認識するか、その場所や程度には個人差がある。著者が「本当はここ細部もうちょっと埋めないといけないんだけど」と認識している場所には「容易に示される」「細部は読者に委ねる」という標識が立てられるが、著者がその認識すらせずに細部を豪快にすっ飛しているパッセージだってあってもおかしくないのだ。

数学書を読むときには、黙って著者についていくだけではだめで、著者が見過したかもしれない飛躍に注意を払いながら読まないといけない。「これは容易に示される」とも「証明は読者に委ねる」とも書いてない部分でも、つねに細部は読者に委ねられていると考えなければならない。そういう場所に埋めるべきギャップを見い出せるようになれば、数学徒として一段階成長した証拠だ。


2012年6月3日(日)くもり

位相空間論シンポジウムがお開きになったあと、カダくんウスバくんにうちの妻子が合流して、二番町のピッツェリア「ダ・ボッチャーノ」で昼食。ピザはさすがにうまかったが、接客に少々釈然としないものを感じたので、次にいくのは当分先のこととしよう。昼食後、体調が思わしくないというウスバくんが大阪方面へ去って、カダくんとうちの家族が松山城から萬翠荘という標準コースで見てまわる。

玄関ホールから階段を見上げる 一階南側広間
萬翠荘の内部。ステンドグラスがアールヌーヴォーだったり。

その後、JR松山駅の「ステラおばさん」でお茶して解散。いやそれにしても松山城本丸の売店のお姉さんはかわいか(略)。夕食はパパラーメン。夜になってからSkypeのチャットで第2回「すうがく徒のつどい」の企画会議。若い人たちが互いに声をかけあって面白くかつ有意義な催しを自発的に運営しようとする様子を見て、おっさんの俺は安心した。邪魔にならない程度にお手伝いしよう。


2012年6月2日(土)くもり

去年の同じ時期(→2011年6月4日の日記)にも、似たようなことがあったけど、今年は位相空間論シンポジウムが愛媛大学で開かれ、それがまた学部の教育懇談会と重なってしまった。今年は二人の学生の親御さんが見えて、いろいろ相談に乗らねばならぬこともあって個別懇談がけっこう長時間にわたった。それでも、シンポジウムのきょうの締めくくりの講演、お目当てだったウスバくんの発表は聞くことができた。ウスバくんの他に、カダくんトモヤスくん、それに神戸のアンドルーと、知人も少なからず来ているのだけど、喪中の俺は、セトリアンで開かれた懇親会には出ずに引き上げる。シンポジウムはあすの午前中まであり、あすの午後はカダくんとウスバくんを市内観光に連れていく予定。


2012年6月1日(金)くもり

11時40分ごろ、空腹に耐えかねて生協でカレー買って食いはじめた矢先に、妻から「お弁当できたからもっていく」の連絡が入った。そういえば弁当を作ってくれると言ってたわ。それで、昼はカレーで済ませて、午後の授業が終わった4時半くらいから愛妻弁当を食べた。きょうは昼食二回、夕食なし。

午後のセミナーでは、寺澤順『はじめてのルベーグ積分』(日本評論社)を、3回生3人が輪講。学生さんたちの持つ第2刷では、俺の持っている初版第1刷と比較してところどころ証明が書き換えられているところがある。すでに証明した結果を使えばすぐに済むような結果を改めてイチから証明する二度手間なところが第1刷に散見されたが、そういうのが修正されている。それはそれで結構なのだが、セミナー受講者と指導教員が同じ本を見ているようで見ていない状況はちょっと困る。

夕方からいつものピアノのレッスンに行くが、さすがにほとんど練習できていない。レッスン後、松山市駅のドトールコーヒーでコーヒーを飲みHawkinsを読んで、8時の電車で帰宅。