て日々

2013年5月


2013年5月31日(金) くもり

午後、演習の授業。あんまり進まなかった。夕方、ピアノのレッスン。あんまりうまく弾けなかった。市駅前のミスドでドーナツを買って帰宅。

あっというまに5月が過ぎ去ったように感じるが、日記を読み返せばわかるように、いろんなことがちゃんとひと月ぶんあった。記録を残すのは大切だ。


2013年5月30日(木) くもり

昨日書いたことはゴミクズだ。

だって俺はそもそも「わからない」からこそ悩んでいたのだ。「わかる」とはどういうことなのかをわかりたいと思って考え始めたのだから、そこにはたとえ不十分な萌芽的なものであったとしても「わかる」ということの理解があったとせねばならん。だって、わかりたいと思ったのだから。

いや、決して「知らないものを欲することはできない」と言っているわけではない。ティーンエイジャーはまるで火がついたかのように熱心に異性を求めるが、そのことはむしろ連中が異性のことなど本当には何も知っちゃいないことを意味している。

いつ見きとてか恋しかるらむ。

何事かを知りたい、わかりたいと欲するということもそうで、知らないし、わからないからこそ、知りたい、わかりたいと思うのだ。ところが、今回に限っては特にそのわかりたいことが「わかるとはどういうことか」なので、話がややこしい。「わかるとはどういうことなのかをわかりたい」というのはいったい何を望んでいるのだろうか。それさえつかめればよいのだがこれもとうていダメだ。けっきょくのところ、自分が何をつかもうとしているのかということをつかもうとしているのだから。自分が何を洞察したいのかを洞察したいのだから。何度言い換えても同じことだ。だとしたら、ゴミクズどころか、中身のないラッキョの皮むきである。

ダメだダメだ。空っぽの言葉を振り回してばかり。まったくひどいもんだ。この道の先には答えがない。引き返そう。

「人の心がわかる」ということがどういうことかわからない、というのがそもそもの発端だった。

『濠水上に知る』のことを、ずいぶん前に「て日」か「て日々」に書いたと思っていたが、手元のデータをあれこれ検索しても見つからない。改めて書くとしよう。これは『荘子』の章の一つで、湯川秀樹の随筆『知魚楽』などでも論じられてよく知られている。

ある日、荘周と友人の恵子とが、濠水のほとりを散歩していた。そよ風が吹いて陽光が暖かに降りそそぐ中、豊かに水をたたえた濠水には、魚が群れをなして泳いでいる。荘子はいう。

荘子「魚が悠々と泳いでいるじゃないか。あれが、魚の楽しみというものだ。」

論理家の恵子が、荘子をからかっていう。

恵子「おいおい、きみは魚じゃないのに、魚の楽しみがきみにどうしてわかるものか。」

荘子「きみはぼくじゃない。ぼくに魚の楽しみがわかるかどうか、きみにどうしてわかるものか。」

恵子「そりゃあもちろんぼくはきみじゃないから、きみの考えていることはわからない。だけど、きみが魚じゃないから、魚の楽しみがわからないというのも、それと同じくらい確かだよ。」

この恵子のロジックに、荘子はこう答えた。

荘子「話を最初に戻してくれよ。きみはぼくに魚の楽しみがわからないだろうと聞いたけど、その時には、魚の楽しみをぼくがわかっているかどうかが、きみにはわかっていたわけだろう?それと同じことさ。魚の気持ちがどうしてわかるかって?濠水のほとりに立ってわかるんだ。」

話はこれで終わり。最後の一文は恵子の言った「どうして〜できるものか」という反語の「いずくんぞ〜せん」を荘子が「どこで〜するのか」という意味にずらして「濠水のほとりでわかった」と答えた、この漢文のシャレを、俺が「なんで〜できる」に置き換えて意訳したものだ。一見すると単なる屁理屈の応酬だが、よく読むとこれはかなり大切なテーマを扱っている。

荘子と恵子の考え方は対照的だ。

恵子は「わかる」ということを知的・論理的に、何事かについて絶対的に確実に知ることと解しているように見受けられる。だから「ぼくはきみじゃないからきみの考えはわからない」というのだろう。

ところが、「きみに魚の楽しみがわかるものか」といったその時点ですでに、荘子にとってのわかる/わからないということの意味が、恵子にはすでにあきらかにわかっていたはずだ。そういう了解・洞察の働きが常に実地に働いていることに目を向けろと、荘子は訴える。了解の働きが濠水のほとりでそのとき確かに魚の楽しみを洞察したんだ、と。

そうだな。われと我が身で現場に立って「魚の楽しみ」を知るように心がけよう。

やる気のないあひるやる気のないあひる

講義は二項関係の話に入った。反射的・対称・推移的な二項関係のことを「同値関係」と呼ぶ。関係 \(R\) の反射律とは、どんな要素 \(x\) も自分自身に対して \(R\) 関係にあるということ。対称律とは、\(x\) が \(y\) に \(R\) 関係にあるときには \(y\) が \(x\) に対して \(R\) 関係にあるということ。最後に \(R\) の推移律とは \(x\) が \(y\) に対して \(R\)であり \(y\) が \(z\) に対して \(R\) 関係にあるときには \(x\) は直接 \(z\) に対して \(R\) 関係にあるということ。

\(x\) が \(y\) に対して \(R\) 関係にある、ということを \[ x\mathrel{R}y \] と略記するならば、反射律は

どの要素 \(x\) についても \(x\mathrel{R}x\) が成立する

であり、対称律と推移律はそれぞれ

\(x\mathrel{R}y\) が成立するときには \(y\mathrel{R} x\) も成立する,
\(x\mathrel{R}y\) と \(y\mathrel{R}z\) が成立するときには \(x\mathrel{R} z\) も成立する

と書きあらわすことができる。講義で対称律のこの定式化を板書しながら,《「俺はお前にアールだぜ」と言ったら「あたしもあなたにアールなの」と返ってくるのが対称律》と言ったら受講者のあいだに微妙に動揺が走り、さらに推移律を板書しながら《「わたしはこんなにも\(y\)さんにアールなのに、\(y\)さんったら\(z\)さんにアールなの。」というときに「そんならいっそ俺が直接 \(z\) さんにぃぃぃ〜っ」となるのが推移律だ…って、俺は何を言ってるんでしょうねいい歳して。》と言ったら、今度ははっきりと笑いが起こった。「関係」を論じるとついつい口が滑ってしまう俺もよくないが、受講生たちはたいていが二十歳そこそこであり「関係」には興味津々なお年頃なのである。


2013年5月29日(水) くもり

早くも梅雨入りしたとみえて少々蒸し暑い。午前中の4年生のセミナーは教育実習のためお休み。M2セミナーでは引き続き新井『数学基礎論』第5章に従ってモデル理論をさらうが、12時40分から16時50分ごろまで実に4時間もかけて3ページしか進まなかった。M1セミナーは新版Kunen本の第I.13節をケーニヒの定理のところまで読んだ。くたびれた。

じろりアイコン

昨日考えたことは、だから「文章や発言の意味が、状況に応じて適切に読みとれる」ということに深く関連しているだろう。たとえば、

《おやつは冷蔵庫よ》

という言葉について考えてみよう。この発言が、「冷蔵庫におやつが入っていますよ。」あるいはさらに一歩すすんで「冷蔵庫に入っているおやつを自分で見つけなさい。そしてそれを自分の手で取り出して食べなさい。」という趣旨の発言であると解釈できるためには、俺たちは実に多くのそこで言われていないことを事前に了解していないといけない。この発言を「おやつがわりに冷蔵庫を食べなさい。」とか「およそ、おやつというものは、すべてある種の冷蔵庫なのである。」とかいう意味に受けとる論理的可能性はあるが、それらの可能性が実際の場面で適切に排除されるのは、ひとえにそうした事前の了解事項のおかげだ。

俺のような「人の心がわからない」人間は、「言葉の裏の意味がわからない」とか「空気が読めない」とか、しばしば言われるわけだが、これは表立って言われていない事前の了解事項を共有していない(しようとしない)ことに起因するのだろう。

しかしそれなら、その言われていない了解事項を了解している人は、それをいつどうやって知ったのか。

どうも話がぐるぐると堂々めぐりをしているようだ。いや、あるいはこの「ぐるぐると循環している」ところが鍵なのかもしれない。すべては確実な足場などなしにぐるぐる循環していると考えてみよう。すなわち、発言の解釈にはつねに変動すなわち訂正の余地があるし、言葉を解釈する下地となる了解事項のストックもつねに改訂されつづけている。いつかすべてを白紙に戻してやりなおすことを強いられる危険性を、ひとの世界はつねに孕んでいる。

なので、発言の意図を誤解する/される危険性を常にある程度残しつつ、少量の不確実性には目をつぶって使うのが日常的な言葉というものなのだろう。たとえば、俺が子供らに「おやつは冷蔵庫だよ」と言ったら、子供らは冷蔵庫を開けておやつを探すだろうが、ひょっとしたらその日に限って、俺はホワイトチョコレートと生クリームを使って冷蔵庫の形のケーキを作って用意しているかもしれない。だから少なくとも日用のコミュニケーションに関しては、「正しい読み方」というものも実はせいぜい「事前の了解事項を背景としてもっとも適切と思われる解釈」であり、「もっとも蓋然性の高い読みかたの候補」として出てきているにすぎない。

だとしたら、そこには、俺がついつい想定してしまうような「数学的な正しさ」はないわけだ。なるほど、俺は日用の言葉づかいに数学的な確実性を求める間違った「ことばの理論」を背景にして、ものを言ったり考えたりしていたのかもしれない。

.....いや、それで話を終らせてはいけない。

というのも、「もっとも適切と思われる」「もっとも蓋然性が高い」と言ってしまうと、そこに、言葉あるいはその理解が最終的にテストされる《答えあわせ》の場のようなものの存在が想定されているとせねばならんからだ。「正しそう」が意味をなすためには、まず「正しい」が意味をなさねばならん。(蓋然性が高そうな)解釈、(妥当そうな)読み方というものが、実際にはチェックされることが全然なかったとしても、論理的な可能性として、何かの基準に照らしてテストされ「正しいな」「間違ってるな」と判定されうるという、その可能性がすでに開かれているのでないかぎり、蓋然性とか妥当性とかいったものも、また誤解とか訂正といったものも、まったく考えられない。

「理解の正しさ」「解釈の適切さ」ということが意味をなさないのであれば、「不確実かもしれないけどいちばん蓋然性の高そうな解釈の候補」というものも、やはり意味をなさない。とすれば、「真/偽」の概念を他の概念に還元してしまうことは、どうやら、きわめてむずかしそうだ。さて、そのことは、結局、「正しさ」についてわれわれが最初からなにほどか知っている、ということを意味するのだろうか。

やれやれ。考えても考えても、けっきょく何もわからん。はたして俺は心を手に入れることができるのだろうか。


2013年5月28日(火) あめ

朝のうち曇り空で午後から小雨。朝は職場の定期検診に行く。このところ体調が崩れやすいのでちょっと詳しく診てもらおうと、胃がん健診、大腸がん健診、痛風(尿酸値)検査、血中鉄・カルシウム検査をオプションでつける。そのあたりの検査の結果は後日出るわけだが、すぐわかる計測値として、体重は昨年とくらべて2キロ減っている。血圧も111/80と至って正常だ。腹囲は5ミリだけ増えている。なぜか身長が減ったが、まあ6ミリのことだから誤差のうちだ。

やる気のないあひるやる気のないあひるやる気のないあひる

妻の車で砥部のスパイス王国へ昼食に行く途中、俺や【息子】が「人の心がわからない」ということをめぐって妻と話しているうちに、話がややこしくなり、「世界の自明性の崩壊の危機」に陥った。さいわい、妻のおかげでなんとか持ち直したが。

現に俺はガキの頃からこれまで、いわゆる「恩を仇で返す」ような恥知らずな行動を、いろいろな場面で、何度もとってきた。そのことを思い出すと消え入りたいような気持ちになる。そして、そうした行為を理由に、俺には人の心を云々する資格はないと宣告されれば、それはもう、返す言葉がない。そういうことであれば仕方がない。ごめんなさいと言うしかない。

だが、「人の心がわからないのか」と誰かが俺にいうとき、あたかもそれは、俺には見えない「こころの世界」という、堅固にしてゆるぎないもう一つの実在の世界があって、俺以外の人はその世界のことを、目の前にある水の入ったグラスを見たり触ったりするのと同じような確実さで、ただし俺にはわからない仕方で、見たり感じたりしているのに、俺だけはそれを見もせず感じもしないのだ、と言われているように、俺には聞こえる。本当にそうなのか。俺以外の人・普通の人・ちゃんとした人・マトモな人はみんな、俺が見ているのとは違う現実を見ているのか。俺だけが(あるいは俺を含む少数の人間だけが)世界を片面しか見ていないということなのか。世界は俺がいま見て感じているとおりに目の前にあるのではないのか。(こうなるともうダメだ。ついさっきまで俺もそこに住んでいるとばかり思っていた明るさと重さと温度のある世界は、水族館の水槽のように分厚いガラスの向こう側へ後退してしまい、俺は無重力の暗闇に一人で放り出される。)

これはいったい、どういうことなのだろう。落ち着け。落ち着いて、よく考えるんだ。

俺は、思考とか感情とか意志とか欲望といった「こころの働き」が、自分の中にあることを知っている。だからそのような「こころの働き」が、他の人の中にもあると、信じることはできる。「心で思っていること」は現実の行動にあらわれ、行動は万人の目に触れる現実の一部である。そこまではいい。問題はここからだ。人は俺の行動を見る。俺は人の行動を見る。俺にしても他の人にしても、お互い見たり感じたりするのは言葉や表情を含む広い意味の行動だけではないのだろうか。

人々は、この世界で行動しつつ出会う。行動はそれぞれの人の内側にあるそれぞれの事情との関連のなかで生まれる。このそれぞれの事情という部分は、本人にとっていかに切実であっても、他の人には見えない。いっぽう、行動はすべての人に見える。世界という未完成の寄せ書きに、それぞれの人が、行動というペンで線を書き込む。時々刻々移り変わる寄せ書きの全体の中で、色とりどりの線が、描かれ、読みとられる。人はそれぞれ自分の周りにある他の人と共同の世界という大きなノートブックの中に、自分の行動という文を書き込みながら、また他の人の行動という文を読みとってもいる。

だとすれば、それぞれの人の心とか、その時その時のそれぞれの人の事情というものは、世界という文脈の中で読みとられた行動という文の意味として浮かび上がってくるもののことだ。こうして「人の心がわかる/わからない」というのは、実在するこころの世界を認識する神秘的な能力の有無ではなく、眼前に展開する絵巻物を読みとる技術の巧拙だということになる。

「実在するこころの世界」に訴える議論では、普通の人・ちゃんとした人・マトモな人とは、とりもなおさず、「こころの世界」がわかる人のことである。ここでは「こころの世界」を認識する能力の有無という形で「普通」と「普通でない」の線引きが実体化されてしまう。線引きは絶対的でありながら、誰かがその線のあちらにいるかこちらにいるかを判断できるのは、「線のこちら側」にいる人すなわち「普通の人」だけである。これでは「普通でない人」は永久的に、劣ったもの、不完全なものであり続けるしかない。

「俺はたしかにあなたたちの心がわからんかもしれないが、あなたたちは俺の心がわからないのだから、お互いさまだ。」という不可知論は、話の辻褄は合うのだが、この世界があることと、たくさんの人がこの世界で協力しあったり敵対しあったりしていっしょに生きていて、そのせいで楽しいことも楽しくないことも起こるのだということの意義を捉えられない。この世界に生きる意味を理解できないまま話の辻褄だけ合わせたところで仕方がない。

こころの世界の実在論も不可知論も拒否しつつ、俺に理解可能な形で「人の心がわかるとはどういうことか」を言語化しないといけない。行動という文字の織りなすテクストを読むことが「心がわかる」ことなのだと考えれば、俺にはまだしも納得がいく。

ところが俺がここまで話すと、妻は知的に理解を示してくれたが、その一方で「あなたはよく読み間違いをする。」とも言う。そうなのかもしれない。そしてその表現は、「あなたには人の心がわからない」という宣告と比較すれば、けだし、はるかに適切だ。だが、「あなたは読み間違いをしている」という発言は、「読み間違い」に対する「正しい読み」が厳然として存在しており、しかも自分がその「正しい読み」の側に立っていると思っていなければ、とてもできない発言のはずなので、妻にその確信の根拠を質さねばならなかった。こうして、議論は果てしなく続くのだ。可能な限り誠実に根気よくつきあってくれる妻には、それこそ感謝せねばなるまい。


2013年5月27日(月) くもり

本の話その1:先週水曜日のM2セミナーで謎だった部分を解明すべく、David Markerのテキスト «Model Theory: An Introduction» Springer (2002) を繙く。これは数理論理学の一分野である「モデル理論」の標準コースへの明快な入門書だ。丁寧に書いてあって読みやすい。ところどころうっかりミスが残っているが、正誤表も公開されている。「て日々」によると俺は一度この本を 4年前の1月7日に読み始めて 数日後、2章の途中で放棄している。こういうことが記録され公開されているというのは(記録したのも自分だけど)なかなか恥ずかしい。ヴォート予想に関連する話題を扱ったセクション4.4 “The Number of Countable Models” だけでも、もっとずっと早いうちに読んでおくべきだったのだ。

さて、いま懸案になっているのは次の命題:

可算な言語 \(\mathrm{L}\) 上の理論 \(T\) の可算モデル \(\mathcal{M}\) と番号 \(n\) と可算集合 \(A\subset\mathcal{M}\) を,\(\mathcal{M}\) における \(A\) の \(n\)-タイプの集合 \(S_n^{\mathcal{M}}(A)\) が可算でないようにとれたとするとき,\(\mathcal{M}\) の濃度 \(\aleph_1\) の初等拡大 \(\mathcal{N}\) を考えると,\(S_n^{\mathcal{M}}(A)\) に属する \(n\)-タイプのうち不可算個が,\(\mathcal{N}\) において実現する.

まずこの主張の真偽を知りたい。真であるとすれば証明をつけないといけないし、偽であったとすればゼミテキストに示された補助定理:

可算言語上の完全公理系 \(T\) がある非可算濃度 \(\kappa\) で \(\kappa\)-範疇的ならば,\(T\) は \(\omega\)-安定である.

の証明をつけなおさないといけなくなる。先の命題はおそらく正しいのだろう。なにか簡単な道筋を俺達が見落しているだけなのだと思うのだが、こちとらモデル理論の専門家ではないから簡単にはわからないのだ。しかしそういうところをいい加減に済ませるわけにもいかない。

それで前回放棄した第2章を読み進む。めんどうくさがらずに読めば、ちゃんとわかるのだ。ちゃんと書いてあるのだから。\(\aleph_0\)-範疇的理論の例として出てくる「ランダム・グラフ」なども明快で面白い。

後日追記:この問題の解決については6月4日の日記をみてください。

〜*〜*〜

本と4つの甘夏

本の話その2:午後、遅れていた浄水器のメンテナンス料の支払いをしに出かけ、そのついでに、スーパーで甘夏を4個買ってきた。研究室のテーブルの積み本の上に置いてこんなアホな写真を撮っているところへ、丸善が京都店を再開させるというニュースが入ってきた。河原町蛸薬師の旧店舗が閉店して、その後ビルごとカラオケ屋になってしまったときは、もう日本も終わりかと思ったものだ。伝統ある書店がなくなって、そのあとに、食うものや着るものの店か、あるいはホテルでもできるならまだしも、カラオケですからね。すこし時間はあいたが、老舗が復活するのは嬉しいことだ。

〜*〜*〜

本の話その3:夜になってから思うところあってジュンク堂に行って 小池龍之介『偽善入門』(小学館文庫) という本を買ってきた。読んで反省することしきり。愚かな俺の心の動きがぴたりと言いあてられている。他にあと2冊の本を買ったが、それについてはまた改めて。

〜*〜*〜

本の話その4:大上丈彦『ワナにはまらない微分積分』(技術評論社)について。メダカカレッジ主宰である著者の『むずかしい微分積分』(荒地出版社, 2000年)を加筆修正・再編集し、森皆ねじ子のイラストも増補して再刊したものだ。実は今月上旬に著者から頂戴していた本なのだが、奥付の発行年月日が来月になっていたので黙っていた。高校の微分・積分の復習から、その後の大学やなんかで勉強したり使ったりする数学への橋わたしがテーマなのだが、特徴は、なにしろ脱線が多い。非常にしばしば著者の数学観や教育観の表白へと脱線し、無駄口を叩いていると見せかけておいて、実は本題の普段は見えない裏側に光を当てたりする、そういう面白い本。理系学科への進学を考えている高校生や勉強しなおしたいオトナのみなさんにおすすめ。

そして俺はねじ子イラストのヒツジがことさらに好き♪


2013年5月26日(日) はれ

午後、子供らが遊びに行っているあいだに夫婦でダイキでいろいろと買い物。子供らは二人で児童館へ出かけたはずが、夕方には【息子】が独りで先に帰ってきた。昨年の4月にもそんなことがあったので、進歩のない奴やなあと思ったが、聞けば今回は【娘】が【息子】に言わずに児童館からお友だちの家に移動してしまっていたのだそうだ。なんのことはない。【娘】も同じ穴の五十歩鼻クソ(違)なのだった。そういえば【娘】には低学年の頃からいざというときのために携帯電話を持たせているのだが、ぜんぜん有効利用できていない。そのあたりのこと、ちゃんと話しあっておかないといけないな。


2013年5月25日(土) はれ

14回目の結婚記念日。子供らが「お祝いだよー」といって俺たち夫婦に紙吹雪を飛ばしてくれた。で「では思い出を語ってくださーい」というので、そこにあった子供らの幼稚園の卒園アルバムを開いて少しお話をして「パパとママはときどき言いあいもするけど、14年間ずっと仲良しだったし、これからももっと仲良しなので、安心してくださーい。子供たちもなかよくしてくださーい。」と宣言。夕食は外食。ビッグボーイでハンバーグやら何やら食ってワインやら何やら飲んだ。


2013年5月24日(金) はれ

午前中、小学校の授業参観に行く。偶然なのだろうけど、6年生の【娘】の学年は第2子第3子が多く、3年生の【息子】の学年はなぜか長男長女が多い。それでまあ、【息子】のクラスを見に行ったら、まーお母さまたちが若いこと若いこと。算数の授業だったのだが、不器用でうまくコンパスを扱えないくせに口ばっかり達者な【息子】が、先生がお話を始めてもまだ喋っていたりコンパスを弄っていたりして、同級生にたしなめられていたのが痛かった。

午後は演習の授業。講義の授業の全責任は講師である俺にあり、とくに学部2年生の基礎科目ともなると、こなすべきメニューがあらかた決まっているから、それと受講者の理解度との兼ねあいで悩まねばならない。いっぽう、演習は学生さんがどれだけ事前に問題を解いて授業に臨んでくれるかがすべての鍵であり、そこのところは俺が悩んでも仕方がないところだ。もちろん、こちらも何もしないでいるわけではなく、解答の発表者を指名したり希望者を募ったりのさいに不公平にならないように配慮するし、誰も解答を発表しようとしない問題の場合は即席で問題をアレンジして解きやすくして考えてもらうなんてこともする。

夕方はいつものようにピアノのレッスン。


2013年5月23日(木) はれ

講義。先週のアンケートの意見を気にしすぎてもっさりもっさりしゃべったら、全然進まなかった。気にしないのもいけないが気にしすぎるのもいけない。難しい。おまけに、毎回自筆記入させている出席者リストを回すのを終了直前まで忘れていたせいで、何人かの受講生を講義終了後10分近く教室に引き止めることになってしまった。ごめん。

夕方からは、テレビ局近くのとある喫茶店に出むく。オーバーシー・パブリッシングの主宰テクニカルライターにして開業内科医の西田亙さんにお会いするためだ。

西田さんについて俺はかつて(→2009年5月26日の「て日々」)で《俺はこの人の本業を知らずに、その著書『Linuxから目覚めるぼくらのゲームボーイ』を買い、あとから自分と同じ大学に勤める先生だと知って驚いたのだ。》と書いた。これについて二つ訂正しないといけない。第一に、西田さんは昨年から「にしだわたる糖尿病内科」の院長先生である。第二に、医者が本業でコンピュータづくりは趣味といっておけば納まりがいいのだけど、どうも西田さん本人がそういう位置づけを望んでいない。糖尿病の専門医として患者さんをみる一方で、コンピュータを作りまたコンピュータについて本を書くということも本業としてとりくんでいる。グータラものの俺にはとても考えられないが、二足の草鞋とはこういうことを言うのだろう。

西田さんは4年前の「て日々」の記述をきっかけにして俺を発見し、ご自分の構想に数学者の観点から俺がアドバイスできるんじゃないかと思ってこのたび声をかけてくれたという。いや、俺ごときに何ができるとも思えない。しかし、医者兼ハッカーという西田さんの存在が俺にとってすでに一つの伝説のようになっていたので、お会いできりゃあこの際なんでもいいやというのもあり、また、わが友人のうこ(@noukoknows)やぼんてん(@y_bonten)のめざす生き方にとって西田さんはひとつのモデルであることから、将来的にこの両サイドをお互いに紹介できれば嬉しいなという思惑もあって、身のほどもわきまえず出かけていき、一時間半にわたってお話をうかがった。

俺はコンピュータの動作原理のうちチューリングやチャーチやゲーデルの計算可能性理論の部分については数理論理学専攻の学者にとって必須の基礎知識として知っているが、電子デバイスの知識はほとんどない。西田さんは、逆に技術者はご自身をふくめて(と本人はおっしゃるのだが)デバイスの知識やコーディングの知識は豊富だが、数学的・理論的なバックボーンをほとんど知らないと言う。俺自身はその認識について判断を下す資格はないが、しかしいずれにせよ、高度に発展したコンピュータ・テクノロジーが、末端においては一般ユーザはおろか技術者にとってすらブラックボックスになっている現状を憂う点で二人の意見は完全に一致した。

技術サイド、アプリケーションサイドの人材と、理論サイドの人材の間に、言葉の壁と高い垣根がある。この垣根を両サイドから取り外していこうというのが、西田さんの主宰するオーバーシー・パブリッシングのミッションというわけだ。ますます俺ごときに何ができるかわからないが、ロジックについての知見を広く共有したいという大きく見れば同じひとつの願いのために、お互い協力しあいましょうと話しあった。それで俺としては、数理論理学とコンピュータの関係についての成書として Martin Davis “Engines of Logic” と ジョージ・ダイソン『チューリングの大聖堂』(早川書房2013年)を西田さんに紹介し、形式言語理論を勉強しなおさないといけないと思っていた矢先なので、それにプログラミングの勉強も加えることを約束した。さて、この先どう発展するやら、よくわからないが楽しみである。

帰りは愛車のBMWで送ってもらった。いや、ハードウェアハッカー兼テクニカルライターの世を忍ぶ仮の姿が開業医だというのは、なんというか、かっこよすぎるじゃないか。

なんだかビル・アトキンソンを思い出す。ビルは初代マッキントッシュ開発期のアップルのプログラマで、QuickDrawやMacPaintそしてHyperCardの作者。実は子供の頃から写真家になりたかったが、食うために始めた世を忍ぶ仮の仕事でこれらの歴史に残る作品を作りあげ、ひと財産築いてアップルの名誉社員になってから引退して写真家になったすごいオッサンである。


2013年5月22日(水) はれ

4年生のゼミは前原『数学基礎論入門』の第2章を済ませた。910くんのゼミでは、新井『数学基礎論』の第5章を読んでいるところだが、系5.6.6の証明がどうしてもわからなくて、とうとう David Marker のテキストや坪井明人さんの本に当って調べることになった。0-1くんのゼミでは、チコノフの定理と選択公理の同値性を証明した。

午前中の4年生ゼミの時間、『数学基礎論入門』の紙面を見ていると、あるはずもない

にゃ

という平仮名二文字が紙面にチラチラと見えかくれするという怪現象に見舞われた。なにか神経がまいっているのかもしれない。

朝から夕方までずっとゼミだったのだが、ときおり演習室から窓の外の景色に目を走らせるだけでも気持ちよさが伝わってくるほどにさわやかな天気だった。

お昼すぎに妻が弁当を持ってきてくれた。いつもより遅かったのは、なんか Sunny Seeds とかいうiOSアプリにつかまっていたせいらしい。俺は俺で、このごろは DOTS っていうシンプルなのを面白がってやってるから、あまり人のことは言えない。わははははのは。


2013年5月21日(火) はれ

iTunes Storeの映画レンタルで『宇宙刑事ギャバン THE MOVIE』というのを観た。30日以内に48時間まで再生可能でレンタル料800円。まあそんなもんでしょう、という出来だった。封切館で正規の料金払ってこの出来栄えなら思わず毒吐いちゃうところかもしれん。初代ギャバンを演じた大葉健二がキーパーソンとして出演しているのは嬉しいが、さすがに30年の間に少々老けこんで、少しばかり みのもんた化してしまっているうえ、しゃべりが基本のんびりした調子なので、役柄との違和感がかなりあった。「宇宙刑事」シリーズ30周年記念作品ということもあって盛り込みたい構想が数々あったんだろうけど、80分の作品にそれをめいっぱい押し込んだ結果、細部が破綻してハチャハチャになったという感じ。ところどころ観ていて痛かった。ただし、アクションは楽しめた。やっぱり日本映画の真骨頂はチャンバラだ。

夜、高校時代の部活の50周年イベントに関連して旧友Kzくんから思いがけず連絡があった。昨日といい今日といい、思わぬ連絡にびっくりさせられる。もちろん、連絡がもらえるのはいいことで、悪いびっくりではないけどね。

しかしサックスはそもそも楽器がない。手放してもうかれこれ5年近くなる。フルートはこのあいだ吹いてみたらスコースコーいうばっかりで音なんかホヘトも出やしない。なので、あっぱれ公演が実現の暁には万難を排し会場に勇み馳せ参じる所存なれどステージに乗る儀は平にご容赦を願う旨を返事したら、案の定「ええやん、そんなんぶっつけでいこやー。口パクでもええしー。ステージで楽器もって応援ちゅうことでー。」と、旧友Kzくんは言う。わははは。30年経ってもノリが変らんね。(でもステージには乗らんぞぉ)


2013年5月20日(月) くもり

午後,大学に来てメールチェックをしたら,俺にとってほとんど伝説中の人というべき方からメールが来ていて,たいそう驚いた.そして,何だか楽しそうなオファーを頂いた.ただまあ,これについては,まだ詳しくは書けぬ.

後日追記:この件については23日の日記を見てください.


2013年5月19日(日) あめ

微熱が出た.一日寝て過ごす.

…という理由で,ろくに書くこともないので,昨日図書館へ返却した海原徹『月性』(ミネルヴァ書房)の感想を書く.

月性とは誰かというと,幕末期の浄土真宗(本願寺派)の坊さんである.周防国遠崎村(現在は山口県柳井市遠崎)の妙円寺に生まれ,のちに住職になっている.彼が歴史に名を残すのはその宗教家としての事績によるのではなく,第一に詩人として,第二に尊皇攘夷思想の伝道師としてである.月性の名より,若い頃に詠んだ詩「將東遊題壁」のほうがよく知られているかもしれない

男兒立志出郷關,(男児 志を立て 郷関を出ず)
學若無成不復還。(学もし成るなくんば ふたたび還らず)
埋骨何期墳墓地,(骨を埋むになんぞ墳墓の地を期せん)
人間到處有靑山。(人間到るところ 青山あり)

「俺は修行の旅に出るぜ,ひと旗あげるまで戻らないぜ,死ぬまで戻れなくても後悔しないぜ」と決意を謳ったわけだ.ただ修行の旅といっても,仏道の修行より漢学者文士たちとの交流が主たる目的であったらしい.詩才,弁才にあふれた情熱家で,短気なようだがどこか人好きのするところがあるらしく,行く先々で同志を見付けては,酒を汲み交わしつつ議論を闘わせ,興が乗ればドンチャン騒ぎもやらかす.京都の漢学塾で勉強していた頃,下宿の隣がお茶屋で,熊本から来た僧が毎晩のように芸者遊びをしてやかましいからと,ある晩たまりかねて怒鳴り込んだはずが,お互い意気投合してしまって一緒に島原へ繰り出すことになってしまった,なんてエピソードもある.仏弟子のやることではないと呆れるほかはないが,とにかく人間的な魅力にあふれた人ではあったのだろう.

文士たちとの交流を通して勤皇思想を育み,オランダ訪問長崎への遊学などを機に諸外国の脅威をも知って,後に月性は確信的な尊皇攘夷の闘士となる.吉田松陰とも交流が深く,倒幕か公武合体かという見解の違いを越えて,互いを同志として認めあっていたようだ.松陰がたびたび政治犯として獄中にあるなど自由のきかない身であったのに対し,月性は僧侶という身分を利用して法話の形でかなり自由に講演活動ができた.月性が萩近郊で講演をするときなど,松陰は必ず松下村塾の塾生に聴講を命じたという.

月性は長州藩領内各地で,諸外国の脅威を説き,外敵を討ちはらう(=攘夷)ために,武家のみならず民百姓も宗教家も一致協力せよという挙国一致の教えを説いた.それは長州藩が倒幕の旗を挙げる前の話である.そもそも長州で最初に倒幕を口にしたのは月性なのだ.つねづね,藩領内各地の寺を巡って大砲作りのため梵鐘の寄進を求めており,法話に出向いた家老の家の火鉢が青銅製であったために「なんで供出せんのじゃあ」と怒って火鉢を庭へ蹴りすてたという逸話もある.あるいは,寺の法話を聴きにきた女のかんざしが銀製であったことを嘆いて「それは供出して丈夫な鉄のかんざしをしなさい.そしていざというときにはその鉄のかんざしで敵と戦いなさい」と説法したとか.

司馬遼太郎が『花神』で指摘しているとおり,長州にだけは,武家と民百姓が一致して国を守るという考えが早くに芽生え,高杉晋作の「奇兵隊」をはじめとする志願兵による国民軍ができている.そのおかげかどうか,長州藩は二度の対幕府戦争に勝利し,さらには倒幕の狼煙をあげて時代を変えるに至った.前にも書いたとおり『花神』では,月性はその名と「將東遊題壁」の詩が紹介されているだけで,物語には全然出てこない.だが,長州の国民軍づくりにあたっては尊皇攘夷の伝道師としての月性の貢献も少なくなかったかもしれない.それは,それでよい.

しかしこの評伝『月性』を読むかぎり,月性の攘夷論,海防論が,どれだけ諸外国および日本国内の実情を踏まえたものだったかはわからない.鉄のかんざしのエピソードが示すように,多分に情緒的な精神論だったんじゃないだろうか.その点,いまの国力で攘夷など無理だという吉田松陰や坂本竜馬の考えのほうが,客観的には正しかったのである.そして,月性の説く挙国一致国民皆兵の考えは,幕末の長州藩においてこそ有効に働いたけれども,70年後の太平洋戦争において同じ考えがいかなる惨禍を生んだかを思うと,あまりその事績を無責任に褒め讃える気にはなれない.太平洋戦争の時代であろうと月性の時代であろうと,どだい,戦争を精神で勝ち抜くことなどできない.とはいえ,近代国家の成立過程では国防問題を避けて通るわけにはいかず,いずれは国民皆兵が論じられるのだとすれば,月性はその時代にあって言うべきことを言っただけなのかもしれん.

士農工商の階級から比較的自由な僧侶という身分の,弁才のある情熱家というのは,その影響力が大きければ大きいほど,「なんちゃらとハサミは使いよう」ということになると思う.来るべき近代国家日本のさきがけと認めつつも,かなりあやうい存在であったのではないかと,俺には思える.老獪な政治家なら,そういう人物に目をつけて「飼っておく」くらいのことはするだろう.もちろん,いざというときにアジテーターや鉄砲玉として利用するためだ.自分の身近にこういう人物がいたら,俺はまず,そのことを心配する.

後日追記:なんと「長崎訪問」を「オランダ訪問」と書いていた.たしかに長崎でオランダの軍艦を見て驚いたのが月性が海防論に注力するそもそもの始まりではあるのだが,それでも長崎とオランダは違う.はずかしいはずかしい.[2013年5月21日火曜日]


2013年5月18日(土) はれ

掃除機を買った.前回買った充電式の掃除機がまったくのヘタレでろくに使わぬうちにオシャカになって以来,ほぼ5年くらい掃除機なしで生活していたのだ.ひどいもんだ.

アイリスオーヤマ製,9,980円なり

そうかと思ったら,自宅二階のPCが壊れた.先週の法事のための帰省の前にシャットダウンした後,起動しなくなっていた.ディスクドライブも回っていないしBIOSの起動画面も出ない.電源まわりの不調だろうと思ってパソコン工房松山店に持ち込んで調べてもらったら,たしかに電源ユニットが壊れており,しかも困ったことに,壊れるにさいしてマザーボードも道連れにしたらしい.ハードディスクとDVDドライブは無事かもしれんが,事実上全壊である.しょんぼり.関連があるのかないのか,ついでに調べてもらった妻の旧ノートパソコン「くまごろー」も起動不能になっている.しゃあない.しばらく家ではデスクトップ機なしでしのぐとしよう.

そういうわけですから,当分は平日の夜はSkypeなどのチャットはできません.関係各位ご承知おきください.

午後は県立図書館に行って本を借り替えた.カミュの「手帖」,ブランショの本2冊,それからコジェーヴ「権威の概念」,ピーター・ディア「知識と経験の革命」.図書館には笠井潔「テロルの現象学新版」はないので,昨日に引き続いてジュンク堂へ足を延ばして買ってきた.帰宅したら家に誰もいなかった.ずいぶんゆっくり図書館で時間を過して帰ったので,コミセンの市立図書館へ行った子供らが先に帰宅していると思ったが,児童館へ回ったらしい.


2013年5月17日(金) くもり

午後,演習の授業でも昨日と同じ設問で授業アンケートをとる.こっちには演習のクラスに関することを書いてくれと先に言うているのに,「もう少しテンポを良くしてもいいと思う(講義のみ)」なんて書いてくれる出席者くんがいた.ふむ.講義については昨日書いたとおり早くて困っている受講生も,こちらは複数いる.ペース配分というのは難しい問題だ.

夕方,寺澤順『現代集合論の探検』(日本評論社)なる本が出版されると聞いて,こうしちゃおれぬとジュンク堂へ行った.(もちろん,ネットで在庫を確認してからだ.)ピアノのお稽古の時間までの20分間,喫茶店でざっと内容をチェックする.

オビには《公理的集合論の初歩から最新の話題まで,コンパクトにまとめた好入門書!》とあるけれども,内容は公理的集合論ではない.本文に

本書も基本的には公理ZFCに基づいて議論を展開する.しかし,専門書ではなく入門書であるので,絶え間なく公理に言及するようなあまりにも厳格な方式は採らない.ただ,公理系ZFまたはZFCから逸脱しないよう注意して理論を展開する.(p.14)

とあるとおりだ.公理的集合論はあくまで数学としての集合論なのであるから,数学として何をやっているのかを知る前に,論理体系としての公理的集合論の形式的展開をやっても仕方がない.であるから,寺澤さんのこの方針は正しい実践的選択だと思う.内容は,よくある「集合と位相」の集合の部の議論を最初の2章で終わらせたあと,「順序数」「選択公理」「濃度」といったトピックを詳しいめに概観したあと,最初の不可算順序数 \(\omega_1\) の組合せ論的・位相空間論的な性質を紹介する.

特筆すべき内容としては,選択公理を仮定してツォルンの補題をきちんと証明していること,特異基数仮説にかんするシルヴァの定理を証明つきで紹介していること,測度問題から巨大基数公理に至る道筋の展望を述べていること.少ない予備知識で現代集合論の面白いところを紹介するには,これらは最適な題材だと思う.

このほかに,言語の形式化を必要としない集合論のトピックとしては,キューネン本2011年版の第III章(1980年版なら第II章)で扱われたような「デルタ・システム」「木」「ススリンの問題」「マーティンの公理」「ダイヤモンド原理」,あるいはキューネン本にもないが「決定公理」などが題材として考えられる.入門書にどれだけを盛り込むかという点は,まあ著者の匙加減ひとつである.しかし,マーティンの公理や決定公理の面白いところを扱うには,位相やルベーグ測度にかんする多少の準備が必要でもあり,ここでやめたこの本のやり方は,「もう少し食べたいところでやめる」という意味や,俺たちに仕事を残しておいてくれたという意味で,奥床しい選択であると思う.

というわけで,公理論という観点は全くないので,ロジック大好き形式的体系大好きという人にはお勧めしない.集合論大好きなかが☆みんのような人にも,おそらくすでに知っていることしか書いてないという意味で,必ずしもお勧めしない.むしろ,集合論という分野が「集合と位相」に尽きるものでないことを知ってもらうために,ロジック専攻でない数学徒に読んでほしいと思う.で,これを読んで「もう少し食べたい」と思った人は,ぜひキューネン本や最近復刊なった西村・難波『公理論的集合論』(共立出版)を繙いてみてくださいな.

それでも,集合論に関する限り「公理的集合論の初歩から最新の話題まで」は,出版社のハッタリに過ぎないと思う.そして,集合論のホンマモンの最新の話題については,日本語で書ける人は,残念ながら多くない.俺もこれに関しては全然だめだ.がんばらないといけない.

やる気のないあひる

ネコバスのマグネット

さてさて,夜も9時半近くなってから,【娘】が修学旅行から戻ってきた.おかげで【娘】のみならず【息子】まで興奮状態となり,10時過ぎに寝床に無理矢理ネジ込んで電気を消して寝させねばならなかった.まあ,明日が土曜日でお休みだから,ちょっとくらい大目に見てやればよかったかもしれないな.俺へのお土産はネコバスのマグネット.写真のとおり,どことなく赤塚不二夫的な谷岡ヤスジ的なネコバスである.


2013年5月16日(木) はれ

【娘】が修学旅行に行く.朝6時40分集合だというので,一緒に始発電車に乗って6時半に小学校まで行き.俺はその後,他に行くところもないので,そのまま大学へ.朝7時前から大学にいるというのは,さすがにこれまでにないことだ.

午前中は例によって「集合と位相」の講義.この時期恒例の「中間授業アンケート」をとる.フィードバックを授業の改善に役立てようという趣旨のアンケートである.耳に痛い指摘がないかと,読み返すときにはドキドキするのだが,このごろは幸いなことにみなたいてい好意的である.ただし今回は「ペースがちと早い」「考える時間がほしい」という,講師のせっかちさ短気さの指摘が複数あった.この点は,たしかに反省せねばらない.あと,一件だけ「もう少し数学的に説明してもいいと思う」という意見があったのは意外だった.ふむ.その受講生さんにとって,このトピックは(あるいはそれに関する俺の説明は)数学とは思えないらしい.もっとも,そういう反応は「集合と位相」という科目が講じられるところではどこでも起こるものらしい.

昨日の日記に書いたようなわけで妻は一日じゅう家におらず,夜も学会のために訪れた知人との会食に出かける.【娘】は修学旅行に行っている.というわけで俺が早めに帰って【息子】の晩飯の用意をしてから,いつもの医者に行った.


2013年5月15日(水) くもり

きょうから3日間にわたって、妻はひめぎんホールで開催される「産業保健なんちゃら学会」の大会に出かける。

だが、きょうさっそく、研究発表を見ていくつかの発表での統計データの誤用に気付いたが、指摘せずに帰ってきたという。学会に出向いて発表内容の間違いに気付いたのに黙っていたというのは、地味に罪深い。間違った発表内容を見過しにすると、場合によっては間違った結論が正しいものとして横行し世に害毒を流すことを知っていながら許すということになりかねない。

たとえば、ファーストフードの店でアルバイトしていて、同僚がアイスコーヒーの注文を受けているのにコーラを出そうとしていることに気付いたら、見て見ぬ振りはしないだろう。たとえば、電車に足腰の悪そうなバアさまが乗ってきて、座っている俺がそれに気付いていなかったら、妻だったら俺にそのことを指摘して席を譲らせると思う。たとえば、うちのアホ息子が他所の家の玄関先に置いてある石を勝手に動かそうとしたら、たとえ息子に悪気がなくても、注意してやめさせるはずだ。学会発表の間違いを指摘するというのは、そういうレベルの普通の倫理観にのっとった普通の行為であるべきだ。

仮に、自分にわかる間違いには自分でフィルターをかければよく、自分に有益な情報さえ得られればよいのだ、という態度で臨むとしたら、つまり「間違いに気付かない奴らが悪いのだから指摘してやる必要はない」という路線で行くとしたら、とりもなおさず参加者全員がその態度で学会に来ていることを容認することになる。そうすれば、自分が必要とする「有益な情報」とやらにも、自分が気づかない間違いが含まれていることを覚悟せねばならん。チェックが機能しなくなれば、当然、発表の質は下がるだろう。

間違いに気付いていながらそれを放置することは、学会における研究発表というものの意義を台無しにすることだ。それでは、なんのために安くもない参加登録費を払って、家事も他の仕事もさしおいて出掛けてるのかわからん。研究内容を広く知らせ、かつ、他者のチェックにかける。その両方の機能を果たしえなければ、学会発表は、トンデモさんが既成事実を作る場か、あるいは仲良し学者グループの同窓会に堕してしまう。

そのように言って、妻の研究者倫理に悖る行動を咎めたのだが、妻のほうにも言い分がないことはない。

曰く、俺の言うことはもっともだが、これはポスター発表の掲示でみつけた間違いであり、その場に発表者がおらず、きょう初めて入手した抄録集に記載されたアブストラクトには、単純集計のみ記載されていて問題となる統計処理はない。つまり尻尾のつかまえようがない。また、統計処理にかんする自分の知識は3年前の修士論文執筆時のものであるから、その後あっと驚く新手法が開発されているという可能性は否定できない。だから発表者本人をつかまえて質疑をしなければ本当のところはわからない。ぜひそうすべきだったのだが、ポスター発表は1日ごとに総入れ替えされるから、面識のない発表者に直接ただすことは、もはや困難である。あと、そのとき質疑が可能であったとしても、ポスター発表は時間がタイトだし、発表者をビビらせるのは申しわけないから、質問するタイミングがむずかしい。云々。

なるほど、そういう事情があるにせよ、もしも発表内容が重大なものであるなら、事後にでも疑問点を質すべきだ。そのために、抄録集には発表者の所属と氏名が明記されているはずだ。発表者をビビらせるわけにいかないというが、ひょっとして返り討ちに遭ってこちらが恥をかく可能性のあることでもあり、そうだとしたら、自分こそ貴重な勉強をさせてもらえるわけだ。そういう勝負というか、恥をかいたりかかせたりする権利を参加登録費を払って買うのが学会発表というものである。きょうの事例はもう取り返しがつかないとしても、あと2日ある会期を妻が無駄にしないことを望む。

後日追記:妻は翌日のセッションでは,確実に指摘できる誤謬についてはできる限り指摘してきたという.うんうん.そうこなくちゃ.で,思うに,ポスター発表会場をざっと渡り歩くだけで統計手法上の間違いを複数見つけられるのだとしたら,そうした間違いは想像以上にユビキタスなのかもしれない.もっとも,講演や学術論文という形での発表であれば,統計手法も厳しくチェックされるはずだが,ポスター発表であっても,そういうところで敷居を低くしてもらっては困る.妻もこの学会の会員というわけではないのでどうしようもないが,もしも何かの間違いでこの日記を読んでいる「学会のえらい人」がいたら,今後はもう少し気にしてください.[2013年5月20日月曜日]


2013年5月14日(火) はれ

アルベール・カミュの遺作『最初の人間』(大久保敏彦訳,新潮社1996年/新潮文庫2012年)を読んだ。これは文字どおりの小説ではなく、1960年に不慮の交通事故で世を去った著者が事故現場に残した原稿から、友人や未亡人や娘の手で校訂作業を重ねて復元された未完成の「作品」である。ここでは、フランスからの移民の子としてアルジェリアに生まれ育ったカミュが、自分の生育環境をつぶさに回顧している。ただし、この本の主要部分を占める自叙伝的な記述は、作品が完成したあとで作者によって削除される予定だったのではないかとも言われているそうだ。

「最初の人間」とはどういうことか。主人公ジャックは、1歳のときに戦争で父をなくし、祖母のとりしきる母の実家で貧困と無知に取り囲まれながら育つ。ジャックの母親は耳が悪くてほんの少ししか言葉が話せず、読み書きもできない。明るく気丈な祖母も頑健で人のよい叔父も無筆である。生きるために必要に迫られて働くばかりの彼らは、伝えるべき歴史も出ていくべき世界ももたず、過酷な暑さのアルジェの下町で、ひたすら現在に生きている。この『最初の人間』は、そんな人々の暮らしを、深い愛情をもって、しかしあくまでも散文的に描き出す。

ジャックは小学校の教師の説得によってリセへ進む。学業にもスポーツにも(そして喧嘩にも女漁りにも)才能を発揮したジャックは、パリに出て立派に成人する。40歳のときに初めて父親の没地に墓参りに行き、現在の自分より若くして父親が戦死した事実に驚いたジャックは、父のことを知りたいと望む。だが、あちこち訪ねてまわっても、父親の人となりをうかがわせる手掛かりはほとんど残っていない。父を知らず、祖母の家の時の止まったような生活からも離れたジャックは、受け継ぐべき遺産も伝承された祖先の物語もいっさいもたない根無し草なのだが、そのことが「ジャックは自分が最初の人間であることを知った」と表現される。

カミュの遺したノートから、物語はこの先、あるいはアルジェリア独立運動をめぐって展開したかもしれないと推測されるらしいのだが、その部分が書かれることはなかった。カミュが最終的にどんな物語を書こうと構想していたにせよ、アルジェの貧しい労働者たちの生活を描き出す飾らない文章が、俺にはとても味わい深く感じられた。

やる気のないあひる

キッチンの排水が詰まったらしく炊事ができない。パイプ屋に頼んだが明日になるというので、夕食は外食することにして、近所のお好み焼き屋に行った。俺が混ぜ方や焼き方を実演しつつ子供らに説明し、みなそれぞれに焼く。【息子】がいちばん上手にひっくり返した。【娘】がいちばん上手にきれいな形にできた。妻がいちばん上手にソースと薬味を盛った。そう言って「俺のがいちばんダメやなあ」とこぼしたら、「パパは作りかたを上手に教えたやんか」と、すかさず妻子からフォローが入ってうれしかった。


2013年5月13日(月) はれ

朝6時に東予港でフェリーを降り、金曜日に夕食をとった東予のジョイフルで、こんどは朝食を食う。松山まで車で戻ると、だいたい小学校の始業時刻になっている。そのことを見越して、金曜日のうちに学校の用意を済ませたランドセルを車に積んであるのだ。子供らを学校に送り込んでから、俺と妻は家に帰って旅の荷物を片づけ、本当なら出かける前にするべきだった部屋の掃除をした。

夕方、【娘】が帰宅したのですぐに宿題をさせ、もう一度電車に乗ってジュンク堂へ連れていった。本を買ってやって昨日の約束を果たすためだ。2,000円くらいまでと予算を言うと、【娘】は青い鳥文庫を2冊選び、残り600円くらいをどうするか、いつまでも迷っている。いつもこの調子である。豊富な選択肢が目の前に提示されて迷っているその状態が楽しいということなのだろうが、とにかく決断ということをしない。夜がふける前に帰らにゃならんので、決められないのならと、先に目星をつけておいた令丈ヒロ子「S力人情商店街」シリーズの新潮文庫を1冊選んで「これにしろ」と勝手に決めてやった。俺のための本としては、栗本慎一郎の最初の本『経済人類学』(東洋経済新報社 1979年)の講談社学術文庫版と、本人いわく「最後の本」である『栗本慎一郎の全世界史』(技術評論社 2013年)を買った。学生時代によく読んだ栗本慎一郎が元気で新しい本を書いていることを知ったのはうれしかった。あとは、日本地図を買った。これはどこかの壁に張っておくことにする。


2013年5月12日(日) はれ

実家で亡父の一周忌法要。一年ぶりに叔父さん叔母さんが集まる。

法要のあとにお昼をふるまう。今回は仕出しを頼んで実家の座敷でやる。父の兄弟姉妹はそれなりに仲がよく、座が白けることはない。だが、父の末弟ヨシナガ叔父が座を盛り上げている中で、母方のカンジ伯父だけは話に参加できず、ひとり所在なげにしている。こればかりは仕方のないことだ。父方のきょうだいでただひとり社交センスをもち気働きのできるヒロコ叔母は、残念ながら欠席である。ならば、あるじ役の俺たち兄弟が間に入ってやらねばならん。それは重々わかっているのだが、三人ともがそれぞれの理由で人と話を合わせるのがどうも下手である。申しわけない。そこへもってきて、狭い部屋に大人数だから、弁当を並べる隙間に事欠いているありさまで、主家の者はできるだけ奥で子供たちと一緒に食事するしかない。そんなこんなで、いろいろと愛想のない饗応であった。

親戚のみなさんが帰ったあと、割り前を払う現金を引出しに銀行へ行った。その帰り道に書店でカミュ『最初の人間』新潮文庫版を買い、さらに花屋でカーネーションの鉢植えと花束をひとつずつ買った。鉢植えは俺が母に手渡し、花束は子供らが妻に手渡す。母の日だからな。嫁たちにカメラを向けられ鉢植えを抱えてポーズする母はうれしそうだった。

午後4時前に実家を出発して、JR京都駅でお土産を買って、午後7時に大阪南港フェリーターミナルに到着。このあたりでは夕食をとる場所もないので、コインロッカーに荷物をしまってから、ニュートラムに乗ってATCまで出向く。なんだかサブカル男子がたくさんいると思ったら、NMB48が来ていたらしい。先にサイゼリヤで食事をしたらショッピングモールの閉店時刻になってしまって、店を見てまわる時間はとれなかった。昨日といい今日といい【娘】がよい子でおばあちゃんの手助けをたくさんしてくれて、ずいぶん感心だったので、好きな本をなんでも買ってやると言ってあったのではあるが。

今度はフェリーの風呂にも入れた。風呂から船室に戻ると子供らはすぐに眠ってしまった。やはり疲れていたのだろう。俺は寝台で『最初の人間』を少しだけ読んだ。途中トイレに立ったら、ちょうど船が明石大橋をくぐるところだった。


2013年5月11日(土) あめ

昨晩大汗をかいて、それで今度こそ熱はおさまったようだ。朝6時すぎに大阪南港で船を降り、バスで京都へ向かう。本当なら【娘】と【息子】をどこかへ観光に連れていくところなのだが、天気もよくないし、俺の体調も悪い。おまけに当の【娘】が乗り気でない。それで、近所のスーパーに明日お客さんに出すビールを買いに出かけたほかは、実家でおとなしくしていた。

夜、寝床でぼんやりしているところへRingo師匠から電話がかかって驚いた。高校生になった息子さんの数学の解答について疑問に思った点についてお尋ねだった。二点 \(\mathrm{A}(2,0)\) と \(\mathrm{B}(0,4)\) を結ぶ線分 \(\mathrm{AB}\) の垂直二等分線の方程式を求めなさいという問題に、息子さんは \(y=\frac{1}{2}x+\frac{3}{2}\) と答えたが、学校の先生の指導は、それでもいいけど \(x-2y+3=0\) という形に持っていってほしい、というものだったという。工学畑出身の技術職であるRingo師匠は、 \(y=ax+b\) の形のほうが実用上も便利なのに \(\alpha x+\beta y+\gamma=0\) の形を要求する理由がわからんと思い、数学者のハシクレである俺にご下問になった。

で、俺としては、そもそも指導要領がいま現在どうなっているかの知識もなく、たとえ指導要領に書かれていることであってもその背景にある思想については推測するしかないが、と断わった上で、\(y=ax+b\) の形は直線の方程式の一般形では«ない»ことを指摘した。この形の方程式を \(ax-y+b=0\) という形に書き替えることはいつでも可能だが、より一般の \(\alpha x+\beta y+\gamma=0\) の形の方程式を \(y=ax+b\) という前者の形にするには、\(\beta\neq0\) という条件がいる。つまり、\(y=ax+b\) の形の直線の方程式からは、Y軸と平行な直線は除外されてしまうわけだ。

電話を切ったあとで気づいたが、問題のテーマ自体が「直交」にかんするものであることも関係しているかもしれない。この問題の場合、ベクトル \(\overrightarrow{\mathrm{AB}}\) を成分表示すれば \((2,-4)\) となる。これは、線分 \(\mathrm{AB}\) と直交する直線 \(x-2y+3=0\) の係数ベクトル \((1,-2)\) と平行である。このことに注意をうながすことは有意義だ。というのも、ベクトルの直交条件と直線の方程式の関係が、直線の方程式に、たんに \(x\) と \(y\) の一次式というだけでない、ひとつの「意味づけ」を与えてくれるからだ。前後の文脈を知らねば断定のしようはないが、問題がそういう流れの中に置かれていた可能性はある。

いずれにせよ、実際に大事なのは、同じ一本の直線がいろいろな形で表現できることを知ることであり、さらに実際にそれらの表現の間を橋渡しできることだ。俺としてはそこを強調したかったのだが、Ringo師匠にとっては、Y軸と平行な直線のことがよほど意外であったらしく、そちらのほうに感心されてしまった。


2013年5月10日(金) あめ

熱は下がった。インフルエンザではなさそうだが、念のため午前中に医者に行く。薬が6種類も出る。午後は演習の授業。かなり雑に講義を済ませた第2章の演習だったので少し心配していたが、まあ滞りなく終わった。ありがたいことだ。夕方、大急ぎで荷物をまとめて妻の車で東予港へ向かう。夕食は東予のジョイフルフェリーに乗り込むが、また少し熱が出たので風呂にも行かずに寝てしまう。


2013年5月9日(木) はれ

講義。大田本の3.2節。写像の概念の導入だ。このあたりからいよいよ高校の復習レベルの地面を離陸して抽象の空を行くことになる。昼食は朝生田のラーメン屋『萬田』(食べログ, グルメこまち)、それから砥部へ行き、妻が他所で用事をしている間、コーヒーショップで来週の講義の準備をする。

妻のお気に入りのコーヒーショップでちょっとした隠れ場所にちょうどよいところなので詳細は書かない。

夜、38度の熱が出る。インフルなら週末の帰省は中止せねばならん。


2013年5月8日(水) はれ

先日ちょっと書いたような事情で、子供らと朝に電車で出かける習慣を再開した。きょうある洋書(一昨日届いた A.R.Bradley and Z.Manna, “The Calculus of Computation,” (Springer, 2010) の序文)を読んでみて、他の人のことはともかく俺に関するかぎり、通勤電車で専門書を読んでもろくすっぽ頭に入りゃしないことがわかった。俺にとって、専門書を読むのは仕事なんだから、電車の隙間時間なんかに読もうとせず、胸を張って堂々と専門書講読の時間を仕事のスケジュールに入れればいいのである。それくらいの裁量は許されている。今度から、通勤電車ではもっと楽しいなにか文庫本みたいなのを読むことにしよう。それにしても、通勤の電車で本が読めるのは地方都市住まいの仕合わせなところである。

水曜日は朝から夕方までゼミ。910くんの読む新井本5.3節の「対角均質集合」の話はなかなか面白かった。パリス・ハリントン原理もそうだけど、有限ラムゼイ定理にちょっとひとひねりを加えるだけでペアノ算術と独立な命題ができてしまうのが意外である。


2013年5月7日(火) はれ

形式言語理論をろくに勉強していなかったのでいまさら困るなど。

なにしろ、次の図のような(文字集合 \(\{a,b\}\) 上の)有限オートマトンの受理集合が「文字\(a\)と\(b\)の列のうち長さが奇数で最後の文字が\(a\)であるもの全体」であることを見つけるのに4日もかかった。

正則表現({a,b}{a,b})^*aに対応する有限オートマトンのグラフ

いやなに。わかってしまえばどうということではない。次のように考えればよいのだ。

初期状態から機械の4つの状態①②③④のそれぞれに導くような記号列の集合をそれぞれ \(S_1\), \(S_2\), \(S_3\), \(S_4\) とする.このとき次の4つの式が成り立つ: \[ \begin{align*} S_1 = & \; \{\varepsilon\}\cup S_2b\cup S_4b\\ S_2 = & \; S_1b\cup S_3b\\ S_3 = & \; S_2a\cup S_4a\\ S_4 = & \; S_1a\cup S_3a, \end{align*} \] ただし \(\varepsilon\) は空列である.これらの式から,\(T=S_1\cup S_3\), \(U=S_2\cup S_4\) とおくと \[ \begin{align*} T = & \; \{\varepsilon\}\cup U\,\{a,b\}\\ U = & \; T\,\{a,b\} \end{align*} \] となるから,\(T = \{\varepsilon\}\cup T\,\{a,b\}\{a,b\}\) であり,\(T\) は長さが偶数の記号列全体であることがわかる.すると \(U\) が長さが奇数の記号列全体ということになり,あとは \(S_1=Ub\), \(S_2=Tb\), \(S_3=Ua\), \(S_4=Ta\) であることから,

  \(S_1\) は長さが偶数で最後の文字が \(b\) である文字列の全体,
  \(S_2\) は長さが奇数で最後の文字が \(b\) である文字列の全体,
  \(S_3\) は長さが偶数で最後の文字が \(a\) である文字列の全体,
  \(S_4\) は長さが奇数で最後の文字が \(a\) である文字列の全体,

となっていることがわかる.④が受理状態になっているから,この \(S_4\) が受理集合である.

とまあ、これはこれでいいのだけど、同じ考えを次の図で表わされる有限オートマトンに適用すると、ちょっとうまくいかない。

別の有限オートマトンのグラフ

ところが、別の考察によって、このオートマトンの受理集合は

“\(a\)の出現階数”\(-\)“\(b\)の出現回数”\(-\)\(1\) が\(3\)の倍数であるような記号列全体

となることがわかる。

有限オートマトンの受理集合を求めるために、こんなぐあいに、与えられたオートマトンの構成にしたがって毎回イチから個別に考察しないといけないというのではかなわない。そう考えるのは誰しも同じだから、オートマトンの一般理論は昔からいろいろある。そのなかでも基本定理というべきクリーネ (S.C.Kleene) の定理は、文字の有限列の集合について、それがある有限オートマトンの受理集合であることと、正則集合(ある正則表現にマッチする記号列全体の集合)であることが同値であることを教えてくれる。古くから知られた定理なのでつい「そんなんアタリマエやんか」と思ってしまいそうだが、決してそうではない。ちょっと実例をいじって見ればわかるとおり、オートマトンと正則表現の対応関係は一筋縄ではないのだ。まあ、そこが面白いわけだが。

やる気のないあひる

明日までは家庭訪問ウイークの続きで小学校が半ドンだ。きょうは【息子】が初めて自分の友だちを家に呼んで遊んだ。もっとも俺は普通に仕事に出ていたので、そのお友だちには会っていないのだけど。【息子】は昨日からそわそわしていたし、けさ一緒に学校へ向かう道でもずっとニコニコして「すごく楽しみだぁ」と繰り返し言っていた。いやあ、お友だちって素敵だね。パパはそういう感覚を忘れてしまってたよ。

【息子】のお友だち(小3男子)は小1の妹を連れてきた。妹ちゃんをおもてなしするのはうちの【娘】(小6女子)の役目だ。ところがその【娘】は【娘】でまたお友だちを3人も家に招いていた。初めての家でひとりで小6のお姉さま4人におもてなしされる小1女子というのは、ちょっと可哀想だなと思った。想像するだにおっかない。


2013年5月6日(月) 振替休日はれ

妻は某巨大ショッピングモールの医務室詰めのバイトに出かけた。子供らの昼飯にかつおのたたき丼を作ってやる。【娘】はお友だちと図書館で待合せだといって午後から出かけた。俺と【息子】は二人で留守番。途中、たんすの引き出しの修繕をして、ついでに工具箱の整理もする。そのほか、ダイキに買い物に行ったり、コンビニでアイスを買って食わせたり。その後、夕食の足しにと、もやし炒めを作り、ししとうを焙る。


2013年5月5日(日) こどもの日はれ

さしたる理由もなしに、ひどく情緒不安定になって皆に迷惑をかけた。ごめんなさい。夜の船で伊保田から松山に戻った。

家に帰って、木曜の午後船に乗る前に妻が買っておいた新しい電子レンジを設置する。いままでのは、友人の作曲家U子さんが松山に住んでいたころ使っていたもの。表示が液晶でなく7セグメントLEDだったりするところに時代を感じる。U子さんがNYに留学するさいに貰い受けて以来、15年くらい使っていたことになる。もちろん毎日のように大活躍してくれた。いままで本当にありがとう。で、これからは新しい電子レンジを、これも大切に使うことにしよう。


2013年5月4日(土) みどりの日はれ

朝、義父に連れられ筍を掘りにいった。市街地からそれほど離れていない郊外なのに、なんだか人里離れた山奥のような所で、雉が悠々と道路を横切ったりしていた。昼すぎに義父母宅に帰り、昼飯のパスタを作った。


2013年5月3日(金) 憲法記念日はれ

午前中はManna本海原徹『月性』(ミネルヴァ書房2005年)を読んで過ごし、昼食づくりを担当する。午後から妻の車で平生町の神花山(じんがやま)古墳に行ったり、町立歴史民俗資料館に行ったりした。神花山(じんがやま)古墳は古墳時代の前方後円墳で、20代の女性の遺体を納めた石棺が出土したという。

神花山古墳の埴輪レプリカ
現在では公園のように整備されており、往時を偲んで埴輪なども置かれている

神花山古墳女王の復顔説明図
出土した髑髏から科学的考証にもとづいて復顔されたとある

山口県の瀬戸内沿岸は、気候温暖で自然の恵みの豊かな土地柄だけに、古代の有力豪族の住まいもあったとみえて、このあたりは古墳だらけだし、縄文・弥生の遺跡も少なくない。田布施町平生町上関町を含む室津半島は古墳時代ごろまでは島だった。そのころは神花山も小さな一つの島で、その島の山の頂上が、そのあたりを支配していた女王の墓になったということらしい。いまの室津半島と本州とを隔てる海が近畿と九州を結ぶ重要な海運コースであったようだ。少し時代が降って遣隋使・遣唐使の船団が通るようになった頃には、田布施町麻里府が寄港地のひとつになっていたという。さらに時代が降って江戸時代に伊能忠敬たちの作った古地図を見ると、さすがに室津半島は本州とつながっているが、この歴史民俗資料館や平生町役場のあるあたりはまだ海だったようだ。その後の時代に精力的に埋め立て工事干拓が行なわれたのがいまの平生町の主要部ということになる。なかなか面白い。家にじっとしていたのでは知識として聞いても興味をもたないかもしれないようなことだが、現地を訪ねて見聞すると興味をひかれる。

夕食後、明日の食事に備えて牛スジの煮物を作り、トマトソースを用意する。


2013年5月2日(木)はれ

一昨日の日記を読んだカダくんから「あれはお好み焼ではなくたこ焼だったのでは」という質疑を受けた。そうだとしたら元も子もない。まあ真相は次回ヨリオカくんと連絡を取った時点で明らかになるだろう。

たいへん気持ちのいい晴天だった。ただ、ちと風が強かったので外に出ると肌寒かった。講義では先週の論理の話の補足をちょっとだけして第2章を終らせ、第3章第1節の直積集合の話を中心にするつもりだったのだけど、論理の補足が思いのほか長くなってしまって、今日のハイライトになるはずだった第3章問4の解ができなかった。

夕方の船で柳井へわたるべく、小学校へ子供らを迎えに行く。まず【息子】が出てきたところを捕獲するが、【娘】の下校時刻まで1時間ほどある。妻と【息子】が忘れものを取りにいったん帰り、俺は小学校近くのカフェでコーヒーを飲みながらZohar Mannaの古い本を読む。午後3時〜4時の間は難しい本を開くと覿面に眠くなる。これは学者として死活問題なのだが、どうもこのごろそういうことが多い。生活のリズムの問題か、あるいは内臓に病気でもあるのか。

ともあれ、Mannaのこの本 (Zohar Manna, “Mathematical Theory of Computation,” McGraw-Hill 1974/Dover 2003) は、わかりやすく書かれたいい本だとは思うのだけど、この分野の著作にして1974年刊というのはさすがにちょっと古いので、同じ著者のもっと新しい本も読んでみることにしてAmazonで注文した。その前にカートに入れていた本も一緒に発注したので、お金のないこの時期にけっこうな出費になった。妻よ許せ。


2013年5月1日(水)はれ

先日,おとなりさんに赤ちゃんが生まれたそうだ.めでたいことだ.妻は母子保健とか育児サポートとかの仕事をしているだけあって,このごろはとにかく「おとなりの赤ちゃんがゆっくり寝られるように静かにするんよ」と俺や子供らに厳しく言う.俺が普段「うるさいから静かにしてくれ」といくら言っても聞く耳を持たない【息子】にも,この説得は効いたらしく,朝夕の出入りは本当に静かになった.昨日見たら,おとなりのベランダにはさっそく鯉のぼりの支柱が立ててあった.

そんなわけで,きょうから5月.「屋根より高いお父さん♪」とアホ唄を歌いながら,今月もがんばりましょう.

楽譜:やねよりたかいおとうさん