て日々

2013年6月


2013年6月30日(日)くもり

【娘】の部屋の勉強机を買い換えなきゃならんことになった。妻も自分専用の勉強机が欲しいと言い出した。それに、物置部屋になってしまっている【息子】の部屋もいいかげんあけわたしてやるべきだ。なので、しばらくは二階の片付けでバタバタすることになりそうだ。

かなりひさしぶりに茜屋で夕食。


2013年6月29日(土)はれ

あんまり蒸し暑いので散髪に行き、思い切って丸刈りにした。

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涼しいし、気分がすっきりしていいぞ。


2013年6月28日(金)くもり

金曜日には演習をやる。今年度新たに採用した新しいテキストで、それも演習問題には解答がついていないので、すべての問題は解答者が自分で答えを出したものだ。俺が手助けすることもあるとはいえ、みんなそれなりによくやっていると思う。

素数7を法とする整数の剰余類のクラス \(\mathbb{Z}_7\) (すなわち標数7の素体)で方程式 \(x^5+x+1=0\) を解くという問題が学生たちの興味を惹いているようだ。うちの学科の2年生はまだ群論を習っていないから、この体では \(x\neq0\) なら \(x^6=1\) となることを知らない。これを知っていれば少し計算が楽になるのだが、まあ体の要素は7つしかないし0や1がこの方程式の解でないことはすぐにわかるので、正直に計算して答えを出すのもそんなに大変ではないはず。そして \[ x^5+x+1=(x^3-x^2+1)(x^2+x+1) \] と因数分解されることに気づけば、あとの計算はだいぶ楽になる。

蛇足ながら解説する。素数 \(p\) を法とする整数の剰余類のクラス \(\mathbb{Z}_p\) においては、等式 \[ (x+y)^p=x^p+y^p \] が成立する。というのも、通常の二項展開の公式 \[ (x+y)^p=\sum_{r=0}^p {}_p\!C_r\,x^{p-r}y^r \] において、\(0<r<p\) ならば、係数 \({}_pC_r\) が \(p\) の倍数になるからだ。特に \[ (x+1)^p=x^p+1 \] となっていることに注目しよう。\(0^p=0\) は明らかなので、 \[ \begin{align} 1^p=&\;0^p+1=1\\ 2^p=&\;1^p+1=2\\ 3^p=&\;2^p+1=3 \end{align} \] などなど、結局 \(\mathbb{Z}_p\) のすべての要素で \(x^p=x\) であり、とくに \(x\neq0\) のときは \(x^{p-1}=1\) である。

しかし、ひょっとして学生さんが読むかもしれないので、ヒントはここまでね。万が一この解説がわからなくても腕力で計算して答えを出してください。それはそれで、必ずいい経験になります。


2013年6月27日(木)くもり

講義では添え字つき集合族の話をする。もう少しサラッと行ってもよかったのだが、このあたりは \[ \bigcup_{n=1}^\infty A_n = A_1\cup A_2\cup \cdots \cup A_\infty \] なんてトンチンカンを書いちゃう人が毎年必ずひとりは出てくるところなので、おろそかにはできない。集合族のメンバー数が無限だからといって和集合や共通部分の概念的理解に \(n\to\infty\) の極限移行の出る幕はないこと、話はむしろ逆で、まず集合論的な操作の理解を確立してその上にいろいろな極限操作の概念を構築するのが現代の数学のやり方だということ、それらを強調して話す。

講義のあと、昼休みに会議があった。教員が17人いてしかも一人ひとり時間割が違うので、会議となるとどうしてもこうなる。ところがその会議がまた2時間ちょっと続いたもんで、なかなか昼飯が食えなくてつらかった。夕方はいつもの医者に行って薬をもらう。いつもより長く待ったおかげで、持って行ったRebecca Weberの計算論の本が結構はかどった。診察のあとは、書店に寄って子供に読ませる本などなどを買って帰宅。


2013年6月26日(水)あめ

しかしよく降った。朝、三番町のいつものコーヒーショップから大学まで雨の中を歩いたもので、靴もズボンもけっこう濡れたので、先日持っていってあった替えのズボンで過ごした。例によって朝の10時20分から夕方の6時までゼミをやる。0-1くんの集合論のゼミでは、任意の体 \(\mathbb{F}\) 上の無限次元ベクトル空間 \(\mathbf{W}\) とその双対空間 \(\mathbf{W}^*=\operatorname{Hom}(\mathbf{W},\mathbb{F})\) について \[ \dim(\mathbf{W}^*)=2^{\dim(\mathbf{W})} \] が成立する,という証明をやった。この問題については、名古屋時代にヨネザワさんと議論した覚えがある。きょうはそのあと、8時半まで市民コンサートの機関誌づくりの作業。9時の電車で帰宅。


2013年6月25日(火)あめ

ゼミ合宿講義資料の準備。ペアノ算術のことをひととおり書いたので、その部分について協力者にレビューをお願いして、続いて再帰理論の話を書く準備に入る。HD准教授のところのゼミ生IZMくんが質問に来た。密着位相の話であった。シャクマトフさんの講義で出た問題であろう。


2013年6月24日(月)くもり

小学校がきょう日曜参観の代休なので、それに合わせて俺も今月初めの休日出勤の代休をとった。妻の車でドライブだ。水泥町のすみれ森森で昼飯を食って、旧朝倉村のタオル美術館ICHIHIROへ行く。月曜日は図書館も公立美術館もお休みだが、ここなら開いているからね。

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こんな結構な庭がある
俺が来るのは3度めくらいか

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妻と俺
タオル美術館の「ヨーロピアン・ガーデン」にて
知らぬ間に娘が撮影していたもの
面白い具合いに草の蔓が…

それから今治市内のワールドプラザに行く。平日の日中だから人は多くない。特に何か買うというのでもないが、絵本と木のおもちゃの店「ウォルナットグローブ」は楽しかった。瀬山士郎『計算のひみつ』(さえら書房)という本があったので「お前さんこれで数学ができるようになるかもしれんぜ」と言って妻に読ませることに。まあ、俺も読むのだが。


2013年6月23日(日)くもり

小学校の授業参観日。【娘】のクラスに行ったら社会科の時間で、頼朝が鎌倉幕府を開いた頃の話をしていた。平安時代の終わりに、当時どんどん勢力を増していた武士たちが、それまで貴族が支配していた世の中を変えようとした。最初に支配者の座についた武家の者は平清盛で、平家の人々はしばしのあいだ栄耀栄華をほしいままにした。しかし清盛は結局のところ崩壊のさなかにあった貴族中心の社会の中枢を乗っ取っただけだった。当然、他の武家は面白くない。その平家を倒した源頼朝は、今度こそ武家中心の世の中を作るぞと、都から遠く離れた自らの本拠地鎌倉に幕府を開く。それが明治維新まで六百数十年続く武家の世の始まりだ。話を聞きながら、俺たちの時代には頼朝どころか清盛もまだ登場していないなあと思った。

授業参観終了後、辻町の「かめ福」へ行って4人で昼食。その後の行動は、予定が二転三転したが、結局ジョープラにいっていろいろ見てまわり、子供らにソフトクリームを食わせて帰った。


2013年6月22日(土)はれ

午前中、妻は【息子】を連れてNPO法人の会議に出掛け、【娘】はお絵かき教室に行く。妻の会議はどうせ長びくし「ついでにランチを」となるに決まっているので、俺と【娘】の分の昼食だけ俺が用意する。昼食後、塾に向かう【娘】と一緒に電車で市街へ。昨晩デオデオで触ることもできずに退散した新しいiPadを、別のパソコンショップで購入。Retina 64GBモデル。現在の定価は7万円弱なのだが、幸いにも値上げ前の在庫があったとかで、5万9千円になった。ラッキー♪ これはゆうべ知らないお姉さんがデオデオで長々と商談してくれていたおかげだ。ありがとう、知らないお姉さん。

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これがその新しいiPad
翌日ジョープラのデオデオでケースを買った
噂に聞くRetinaディスプレイは確かにきれい

パソコン屋さんを出てその近くの珈琲屋さんで前原昭二『記号論理入門』(日本評論社)を読む。自然演繹にもとづく論理学を初歩から学ぶにはいい本だと思う。

コーヒーショップに1時間ほどいて、その後ジュンク堂書店へ移動。そこで娘の塾が終わるまで待って松山市駅前で落ちあう。きょうが土曜夜市の初日で、娘が行きたがっていたからだ。どこで決まったのか、このごろは小学生だけで行ったら午後6時に引き上げないといけない決まりであるらしい。お友だちのまーちゃんと5時半に待ち合わせているが、それでは見て回る時間がぜんぜん取れないので、俺がお守り役に抜擢されたというわけ。もちろん父親という立場を離れれば一刻も早く家に帰って新しいiPadの設定をしたいわけだが、そこは我慢する。

俺と【娘】が合流するのと同じタイミングで妻と【息子】が電車を降りてやってくる。妻は【息子】を連れてキャメリアホールで開かれる吹奏楽の演奏会に行くが、それまでに多少の時間がある。それで、4人そろって銀天街のサンマルクカフェに行って俺と妻はコーヒーを飲み、子供らはパフェを食う。

妻と【息子】のチームと分かれてまーちゃんとの待合せ場所の「まつちかっぱ」前へ。夜市に行くのは俺と【娘】とまーちゃんとその妹のさほちゃん。と思ったら、まーちゃんさほちゃんのお父さんも一緒である。これなら安心だ。5人で夜市の隅から隅まで見て歩く。結局、7時すぎまでいて、それで俺と【娘】はまーちゃんたちと分かれて帰ってきた。今年は出店がちょっと少ないかもしれないが、初日とて、まあまあの人出だった。期間中に一度、家族で浴衣を着て見て回れるといいのだが。


2013年6月21日(金)はれ

またiPadを持とうかやめとこうかと思案している。夕方のピアノのレッスン後、少し迷ったが実機を見に宮西のデオデオに向った。iPadのコーナーに行くと、30代くらいの女性が展示用の実機を手に店員さんといろいろ熱心に相談している。俺の割り込む隙はなさそうだ。しばらく他のパソコンや電子楽器を見て待ったが、どうやら話が終わりそうにもなかったので、結局なにも買わず、iPadの実機に触りもせずに退散。古町駅までの近道をと思ってフジグラン松山の中を通ったら出口のところで偶然にも院生910くんに遭遇した。いや、こんなどうでもいいエピソードをわざわざ日記に書くのには、ネタ不足以外にもちゃんと理由があるのよ。それは…(翌日に続く)


2013年6月20日(木)あめ

台風の影響からか、朝から強い雨。これはかなわん。だが講義がある。学生さんたちだって大変なのであるから、「雨の中わざわざ出て来たのに、なんじゃこのタワケた授業は!!」と言われるようでは教師失格である。「大雨に負けずに来てよかったぜ」と思ってもらえるような授業をせにゃならん。そう思って張り切って出かけたが、さすがに出席者は普段より10人ほども少なかった。なるほど。雨の日に急に「いつもよりいい授業をしてやるぜ」と意気込んでみたところで、普段がダメだったら「こんな日やから、あのつまらん授業は出んといたろ」と思う人だって出るというわけだ。雨に負けた感。


2013年6月19日(水)あめ

9月の「ゼミ合宿」のために、ペアノ算術における和と積の演算についてひととおりのことを証明する。かけ算の消去律の証明がどうもうまくいかないので、先に大小の比較と演算との関係を考えることにする。しかしだんだん整数らしいことができるようになってくるのは面白いものだ。


2013年6月18日(火)くもり

…とかなんとか言うた舌の根も乾かんうちに、またまた9日分の日記を溜めてしまった。


2013年6月17日(月)はれ

日記をサボらないようにしましょう。毎日、せめてメモを残しましょう。


2013年6月16日(日)はれ"

妻はまたまたショッピングモール医務室のバイト。子供らの発案で松山市総合公園に遊びにいく。

花見広場の風景
雨あがりの晴天でとても気分がよかった
人も多くなくて静かな別世界

運動広場のグリーン
ひなたは暑いが木陰には涼しい風

アスレチックな遊具
お昼のおにぎりを食べて
子供らが巨大ジャングルジムで遊んでいるあいだ
木のテーブルの上に白いタオル,麦わら帽子,缶ビール,数式を書いた紙とボールペン
俺はビールを片手に数学の勉強

青紫のヤマアジサイ  赤紫のガクアジサイ
あじさいの花が綺麗だった

帰宅してシャワーを浴び、おやつにアイスクリームを食べさせたら、子供らはスイッチ切りかえて、今度は図書館に行くといいだした。まあ自分らで行っておいでと送り出してまもなく、お隣さんが【息子】の通学定期が路上に落ちていたと届けてくださった。あわてて駅まで追いかけるが、電車はすでに出発していた。駅員さんに聞いたら「定期がないよー」と慌てながらも【息子】はお姉ちゃんに呼ばれて電車に飛びのってしまったらしい。駅員さんは親切にも降りる予定の大手町駅へ電話してくださった。俺は礼を言って次の電車で追いかけ、大手町駅の駅員さんにも「すみませんでした」と言って頭を下げてから、コミセンの図書館へ向かった。帰り道には【息子】と二人でもう一度お礼とお詫びを両方の駅で言ったのは言うまでもない。慌てていたので下駄履きで、携帯電話も何も持ってこなかった。せっかくだから図書館カードだけでも持ってくりゃよかった。


2013年6月15日(土)あめ

朝飯昼飯晩飯と俺が用意。まあ、きょうは妻子はほぼ一日じゅう出かけていたのだから俺が炊事をするのは自然なことだ。昼食に冷やし中華。夕食には初めての試みとして「たこ飯」を作った。要するにタコの炊き込みご飯だ。初めてのわりにうまくいったが、もう少しだけ水を多めにすればよかったかもしれん。豚しゃぶも自分で作るのは初めて。レパートリーが一挙に二つも増えた。

晩飯
晩飯はたこ飯に、豚しゃぶと冷奴


2013年6月14日(金)くもり

9月の「数理論理学ゼミ合宿」の講義資料の原稿を作り始めたわけだけど、一度は全部を書いてしまわないと何をしゃべればいいのかわからないという性分なので、講義資料はものすごく長いものになりそうだ。2004年に神戸大学で記述集合論の話をしたときも2007年に静岡大学でソロヴェイのモデルの話をしたときもそうだった。いまは初等算術、つまり一階述語論理でペアノの公理系から展開される理論を追いかけているところ。これが書けたら次に再帰理論の初歩とそれの初等算術(に限らず数学の形式的体系)との関係を書き、そこからいったん戻って述語論理の部分を書く、という作戦だ。

算術の言語の演算記号としては「次の数」を意味する後続者関数と「和」と「積」が最初に用意される.今回の原稿ではこれらの演算記号を前置記法で書いている.\(x+y\) の代わりに \(\operatorname{add} yx\) と書き,\(a\cdot b\) の代わりに \(\operatorname{mul} ba\) と書くというわけだ.このやり方には,\(x+y\) という「いかにも足し算」な記号の使用を差し控えることで,既知の算術の計算規則をうっかり使ってしまうことを未然に防ぎ,与えられたルールだけに従った展開が促されるという利点がある.それはそれでいいのだが,演算が前置記法なのに論理式は中置記法というのでは中途半端なものになってしまう.かといって,論理演算子までポーランド式に前置記法にして,\(\operatorname{S}x=\operatorname{S}y\rightarrow x=y\) の代わりに \[ \mathop{\mathbf{I}}\operatorname{Eq}\operatorname{S}x\operatorname{S}y\operatorname{Eq}xy \] なんてやると,さすがにこれは論理式に見えない.思うに,関数や述語については普通の数学の慣例ですでに前置記法が使われているので違和感が少ないが,論理演算子となるとそうはいかないという,要するに慣れの問題なのだろう.

きょうはピアノ教室はお休みなので早く帰宅してやろうと思ったが、結局いつもの金曜日と変らなかった。


2013年6月13日(木)くもり

午前中の講義では、テキストどおり、集合の分割に対応する同値関係という話をした。大きな集合をいくつかのお互いに共通の要素を持たない部分集合に分割すること(たとえば小学校の全校生徒を学年に分けること)から、「分割の同じパートに属する」(小学校の例でいえば「学年が同じ」)というひとつの「同値関係」が導かれるのだが、そのことを「大きな建物を幾つかの小部屋に区切って、同じ部屋に二人入っていたら、あいつら関係あるぜ、と判断するわけです」と言ったら、聴衆が一瞬フリーズしたみたいだ。いや、多分気のせいだろう。前回も思ったが、二十歳前後の若者たちに関係を講じるのは難しい…。

やる気のないあひるやる気のないあひる

9月の「数理論理学ゼミ合宿」の準備として算術の形式体系について勉強を開始。ペアノ算術の公理系から整数の四則演算のいろいろの性質を導出するのに、数学的帰納法の公理がどの程度必要か、という観点から、ロビンソン算術、\(I\text{open}\)、\(I\Delta_0\)、\(I\Sigma_1\)、といったペアノ算術の弱い部分体系がいろいろ考えられる。実際にいろいろの証明を追っていくと、多くの定理が \(I\text{open}\) の範囲で証明できてしまいそうだ。それに再帰的関数や再帰的集合が「算術の形式体系で表現可能」という場合には、数学的帰納法の公理を認めないロビンソン算術で用が足りそうでもある。横着していままでちゃんと勉強してこなかったのだが、これは面白い。何かにつけてそうだが、普段俺がどれだけ「食わず嫌い」しているかという話だな。


2013年6月12日(水)くもり

きのうのはやしさんとの対話とその意外な波及効果について、Togetterにまとめた


2013年6月11日(火)くもり

新大陸はカナダのどこだったかの大学で哲学を研究しておられるはやしさん(@t_hayashi)とは、ツイッターでしばしばやりとりさせてもらっている。きょう日本時間の昼ごろ、はやしさんは、他の人たちの罵倒語についてずいぶん心を痛めている様子だった。ある社会的なグループに属する人たちを、そのグループの外の人が罵倒する。そういう構図はたくさんある。人種や国籍や性別や出自・出身など、社会的グループというものの多くは、自分の意志で所属したりしなかったりできるものではない。相手が自ら望んで引いたわけでも自分が引いたわけでもないそういう社会的な分割線のあちらとこちらで、人々が鬩ぎあうのを見るのは、ほんとうにやりきれない。その点は、俺とはやしさんは同意見なのだ。ちょっと宗教家めいた言いかたになるが、人は人として存在し生きている時点ですでに、無条件に受容され許されている。個々の行為の善悪やなんやかやは、そのあとの話。社会的に引かれた線だってもちろん同じことで、線のあちら側を抹消すれば自分がより善くより幸福に生きられるなどという考えは、端的にバチアタリ。つまり、なによりまず自分自身の不幸のタネだ。

とまあ、日中そのようなやりとりがあって、その夜の帰り道。俺は電停で電車を待つあいだ、通勤バッグを足元に置いて本を読んでいた。電車が来たので乗って席を占め、バッグを膝に置いて本の続きを読み、乗り換えの電停に着いたので降りようとバッグを持ちあげたら、ズボンになにやらグニョっとしたものが付着していたので、思わず声に出して「なんじゃこりゃ」と言ってしまった。さきほど大学近くの電停で俺がバッグを降ろした場所に、たまたま誰かが捨てたガムがあったわけだ。それがバッグにくっついて、俺が気付かずにバッグを膝に置いたものだから、ズボンにもついた。なんてこった。

なにはともあれ電車を降りて、駅の売店で缶ビールを買う。乗り換えの郊外電車がくるまでに15分以上あるので、冷えたビールの缶を当てて、バッグとズボンについたガムを冷やす。こびりついたガムは冷して硬くしてから剥がすほうがいいのだ。大きな塊があらかた取れた頃に郊外電車が来たので乗って帰宅。すぐにバッグとズボンを、今度は氷で冷しながら、さらにガムを剥がす。最後のとどめに水を含ませたメラミンスポンジでこすったら、幸い、バッグもズボンもガムの跡がほとんどわからないくらいきれいになった。

噛んだガムを紙に包まず路上に吐き捨てるのが傍迷惑なことだとは、誰もが知っているはずなのだが、あまり考えずに捨てる人が、昔もいたし今もいる。これからもいるだろう。路上のガムは靴で踏むだけでもいやなのに、今回はバッグとズボンである。自分の不注意もあったが、だからといってガムを捨てるのが正しいという話にはならず、まったく不愉快である。

不愉快ではあるが、きょうの昼間のはやしさんとの対話のことがあるから、ガムを捨てた人を汚い言葉で呪うのはなんとしてもいやだった。それで、俺は冷静に対処できたと思う。ありがたいことだ。はやしさんに感謝。


2013年6月10日(月)くもり

きのう県立図書館で借りた本のうちに看護学でいう「質的研究」に関する本があった。俺は数理論理学を専門とする数学者のハシクレであって、看護師でも医師でも看護学研究者でもない。妻が保健師で、育児支援のNPOの活動などなどに情熱を注ぎつつ在野で研究を続けるのを、俺は見守っているだけである。この本は妻が興味をもつに違いないと思って借りてきたのだ。だが薄い本だったので俺も読ませてもらった。で、そのことを書く。

妻がいい歳になってから大学院に入った頃(2009年4月〜2011年3月)になって、看護学という領域に「質的研究」という言葉があることを伝え聞いた。修士課程一年前期に質的研究を論じる講義をとった妻が急にクーンじゃパラダイムじゃ科学哲学じゃと言い出したので、文献探しを手伝ってやったことがある。看護学には量的研究と質的研究の両方の研究手法があって、統計手法を駆使する量的研究が自信たっぷりにその「客観性・科学性」を標榜する一方で、言語的データの読み込みを中心とする質的研究は、方法論の問題やら「科学とは何か」というメタ理論にまで踏み込んでみずからの「科学性」について弁明しなければならないということのようだ。

なんだか妙な話だ。いわゆる「文系学部」でも方法論の問題は重要トピックには違いないだろうけど、たとえば人文学科の先生がテキストを読み込みその理路をたどる自らの研究手法をことさらに「質的研究」と呼んで「量的研究」との対比を前提としてその方法論の正当化のための論陣を張るなどということは考えにくい。逆に仮説と実験とデータ解析に終始するいわゆる「理系学部」でわざわざ質的研究を槍玉に上げて論難することも考えにくい。ここには何か看護学という領域に特有の事情がありそうだ。

思うに、こういうことなんじゃないか。

妻には心の師と呼ぶべき人がいた。ずいぶん前に過労のため夭折なさったが、その人はおもに自治体向けの保健行政のアドバイザーとして活躍していた。かつてふざけて自ら「女王」と名乗っていたその心の師の衣鉢を継がんとする妻は、自治体とか国の保健政策をチェックしながら活動し、これから力をつけて、できれば政策改善のための提案ができるようになりたい、という目標を視野に入れてものを考え、活動している。保健師であるからには当然に看護師の資格も持ってはいても、妻は自分は臨床には向いていないという。

保健行政・保健政策というと、話を簡単にするために極端な例を出すけど、たとえば、この地域には救急車が何台、救急病院が何軒、ICUのベッドが何床あって、出動できる救急担当医が何人、という全体を睨んだ数字を考えることになる。いっぽう、自分がいま大怪我をして救急車で搬送される身であったとしたら、そのとき地域全体の救急医療態勢に関する数字は意味をもたなくて、いま現在近くに自分を受け入れてくれる救急病院がたった一軒あるかどうかが文字通り生死にかかわる問題である。

また別の例では、医師や看護師は、ある処置の効果とリスクについての数値的なデータを知っているべきだし、ある検査薬が誤って黒を白と判定してしまう確率についても数値的に知っているべきだ。だがいっぽう、ひとりひとりの患者にとって、1パーセントの重篤な失敗のリスクと99パーセントの全快の見込みのある処置を受けるかどうかという選択にあたって、1対99という数値だけから結論が出せるわけもない。

俺は数学者のハシクレだ。しかし数学者とて機械的に確率の高いほうに賭けるわけではない。だいたい、推測統計の危険率が5パーセントで20個にひとつの例外は例外と認めないのと違って、数学というのはただ一つの反例でもあればすべてがパアなのである。

なお、俺はバクチをしない。それは数学的な分析の結果ではなく、やらないほうがいいだろうなという、まあ、ある種の道徳的判断だ。前にも書いたが、そもそもバクチの問題は確率の問題ではない。期待値マイナスとわかっていながら宝くじを買っている数学者だって、いないことはない。

看護には臨床という現場があり、また、妻の取り組もうとしているような支援態勢づくりのタスクもある。この両方向にいかにして有益な情報提供をしアドバイスを与えるかが、研究の価値を最終的に決めることになる。臨床と支援では求める情報はおのずと異なる。臨床の看護師は患者の実存の問題と向きあうことを求められている。客観的な量的な評価は実存の問題に答えを出してはくれない。同様の境遇の臨床経験を適切に言語化し理論化した質的研究のほうが、問題を解決はしてくれないにせよ、よほど助けになるだろう。いっぽう、医療の態勢を整える為政者の立場からは、誰がどんな病気になり誰がならないかは知りようがないし知っても仕方がなくて、どれだけの数の人がどんな病気になるか、その数の内訳のほうが大事なのだから、求められるのは的確に集計された数値データのほうである。

医療や看護の研究のアウトプットには二つの方向性があり、一方は数値的な、他方は言語的実践的な提言を必要としている。このことをまず出発点に据えて議論してもらわねば困る。そう考えると、量的研究と質的研究を単純に対比させて、質的研究の占めるべき位置を看護研究の中に認める認めないの話をしていてはいけないことは明らかだ。

質的研究は客観性を欠き科学的でないと言う批判がテキスト解釈の動機や必要性まで否定したことにはならない。また科学哲学的メタ理論を持ち出して「科学」の枠を再定義したり、はてはパラダイムや共測不可能性なんてことを持ち出して「あなたとはどうせ話が通じないんでしょうけど、だからってわたしが科学じゃないってことにはなりませんからね」と倦怠期の夫婦みたいなことを言っても、建設的なことは何もでてこない。何のための研究かという出発点に返ってもらわねばならない。そして、それが科学であろうがなかろうが、学界の垣根の外の俺たちにとってはどっちでもいいことなのだ。

俺はむしろ科学の権力性、科学と権力の関係を問題にすべきだと思う。つまり問われるべきなのは、質的研究が科学かどうかではなく、質的研究が科学でなければ誰がどう困るのか、だ。

で、話をきょう読んだ本に戻すと、ここで論じられていることは、テーマから言えば、ひとつには科学哲学であり、あるいは認識論であり、ソシュールの言語理論だったりフッサールの現象学だったり、どれ一つとっても、とても一筋縄ではないはずなのだ。それなのに、この本では竹田青嗣の現象学と池田清彦の構造主義科学論とポパーの反証主義を並列させて、あの人はこう言ってるこの人はこう言ってると引いてきては、せっせと「科学」を相対化してみせる。だが、そうまでして「科学」の一隅に居を構えられりゃあそれでいいのかと思う。看護学界という業界での縄張り争いとか研究者のサバイバル術とかの事情を越えたところで「質的研究」の独自の意義を論じるという本来あるべき姿の議論を、この小冊子から読みとることは、俺にはできなかった。

書名や著者名を紹介しない理由はそれだ。これなら、戸田山和久先生の科学哲学の本や鎮目恭夫先生の科学論を読んだほうが有意義だと思う。

とはいえ俺は医療に関してはまったくの門外漢。妻には妻の考えや感想があるだろう。それについても、なにか言うべきことがあったらまた書かせてもらう。


2013年6月9日(日)くもり

午前中、子供らは教会学校に行く。俺は昼食のカレーを作る。カレーライスに炒り卵でも乗せるか、と聞いたら、【息子】は炒り卵、【娘】は目玉焼きがいいという。【娘】は学校の調理実習でベーコンエッグを作るのを楽しみにしているのだ。それで目玉焼きは【娘】に自分でやらせ、俺が炒り卵を作って【息子】のカレーに乗せた。午後、子供らに留守番させ、県立図書館に行って本を返却・借出し。夕食には定番のひき肉味噌炒めレタス添えと、「スープうどん」とでも言うべきものを作って食わせる。妻は夜10時前に帰宅。ひとまず長旅の労をねぎらって、一人前だけ残ったカレーライスを食わせる。


2013年6月8日(土)くもり

妻は一泊二日の予定で神戸に研修に出かける。朝7時には出かけてしまったので、まる2日俺が子供らの面倒をみなければならない。といっても、小6娘と小3息子だから適当に遊んでもらっていれば手間はない。【娘】は、午前中はお絵かき教室と、今さらながら思うところあって週一度だけ土曜の午後に学習塾に通い始めた。【息子】は合唱の練習のない週末はあいかわらずマイペースである。

昼食のやきそば
昼食には焼きそばを作る。具はベーコン・ハム・たこ・ピーマン・にら・玉ねぎ
中華風の味つけでうまかったが、写真ではスパゲティにしか見えぬ。

夕食は手抜き。子供らと散歩がてらフジグラン松山に歩いて行き、フードコートのチャーリーラーメンで夕食を済ませる。食事のついでに、【娘】のプールバッグと、【息子】のおもちゃを買い、明日の朝食のたしにパイナップルジュースを買って、電車で帰宅。

プールバッグ


2013年6月7日(金)くもり

いつもは夕方ちょっとの間だけ頭が冴えて元気が出るんだけど、きょうは夕方が全然だめだった。身体がだるくて、みぞおちのあたりに何か引っかかっている感じなのだ。ピアノのレッスンも休んじゃおうかなと思ったくらいだけど、休んだら休んだでまたあとでつらくなるので行くことにした。今週は朝の7時前に出て夜の9時過ぎに帰ってくる日々で音楽の練習どころではなかった。おまけに体調も体調だから、全然弾けない。O野先生いつもすみません。

帰宅して風呂に入り、ひさしぶりに浴衣を着たら、ちょっと気分が明るくなった。しかしどうもエネルギーが足りない。まあ、こういう日は無理せず寝るとしよう。


2013年6月6日(木)くもり

午前中は「集合と位相」の中間テスト。52人が受けた。重要トピックをひととおり出題したら、けっこうな分量になったが、さほど込み入ったことは尋ねていないのでまあなんとかなるでしょう。

そろそろ9月のゼミ合宿の講義資料の準備をしようと思って、まずは「算術」の項目を書きはじめた。


2013年6月5日(水)くもり

午後は大学院のゼミ。指導ってむずかしい。


2013年6月4日(火)はれ

ある意味での進展がきのう匿名の協力者からもたらされたにせよ、まだ先月27日の疑問は解明されないので、きょうもやっぱりMarkerの教科書を読む。ストーン空間とタイプの排除定理まで読み、やれやれ先は長いわいと思ったあたりで少し先走って、ゼミテキストの件の補助定理がMarkerの教科書のどのステートメントに相当するかを調べてみた。183ページ。Corollary5.2.10というやつだ。証明を見ると、

By compactness, we can find \(\mathcal{M}\prec\mathcal{N}_0\) of cardinality \(\kappa\) realizing uncountably many types in \(S_n^{\mathcal{M}}(A)\).

とある。やはり「そのようなモデル \(\mathcal{N}_0\) がある」と言っていて、\(\mathcal{M}\) の濃度 \(\kappa\) の初等拡大である \(\mathcal{N}_0\) を作ればかならずそうなる、という話ではない。そこは俺たちが読み違えていたわけだ。

それがわかったとたん、謎は解けてしまった。つまりこういうことだ

ストーン空間 \(S_n^{\mathcal{M}}(A)\) に不可算個の \(n\)-タイプ があったとして、それらのうち \(\aleph_1\) 個を整列させて \(p_\xi\) (ただし \(\xi<\omega_1\)) としよう。可算モデル \(\mathcal{M}\) を順次初等拡大して初等鎖 \[ \mathcal{M}=\mathcal{M}_0\prec \mathcal{M}_1\prec\cdots\prec\mathcal{M}_\xi\prec\cdots \] を作る。そのために、(既知の定理の助けを借りて) \(\mathcal{M}_\xi\) の可算な初等拡大を、そこで \(p_\xi\) が実現されるようにとって、それを \(\mathcal{M}_{\xi+1}\) とし、\(\xi\) が極限順序数のときは \(\mathcal{M}_\xi=\bigcup_{\eta<\xi}\mathcal{M}_\eta\) と和をとることにする。こうすれば、各段階の \(\mathcal{M}_\xi\) は \(\xi\) 未満の順序数 \(\eta\) に対する \(p_\eta\) をすべて実現することになる。こうしてすべての可算順序数 \(\xi\) について \(\mathcal{M}_\xi\) が選ばれたなら、その和 \[ \mathcal{N}=\bigcup_{\xi<\omega_1}\mathcal{M}_\xi \] は \(\mathcal{M}\) の初等拡大でその濃度は \(\aleph_1\) 以下であり、\(\aleph_1\) 個のタイプ \(p_\xi\) をすべて実現する。あとは、上向きレーヴェンハイム=スコーレム定理によって、\(\mathcal{N}\) を濃度 \(\kappa\) のモデル \(\mathcal{N}_0\) に初等拡大すればいい。

こうして、補助定理は救出される。謎の命題は初等拡大の構成法を「しかるべき作りかたで作れば」と限定していなかったために、俺と910くんが誤解したものだったわけだ。

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そんなわけで謎は2週間ぶりに解けた。ひと安心だ。

ところで、数理論理学でいう elementary というのは「一階述語論理の言語で記述できる範囲」という意味であって、elementary school が小学校に相当する初等教育学校であるという場合のような「初等的」「基本的」という意味をもたない。にもかかわらず、上に “elementary extension” を「初等拡大」と訳したように、 elementary は「初等的」と訳すのが慣例になっている。これについては、いまさら変えようもないが、なんだか妙なものだとは以前から思っていた。そして、考えてみれば、そもそも一階述語論理の言語で記述できるということがなんで elementary と呼ばれるのか、それがそもそもわからない。一階述語論理が(高階の論理と違って)構造の要素すなわち element にのみ言及する論理だというあたりに鍵があるのかもしれない。山田さん(@Zahlangabeheft)や池田さん(@shinjike)の指摘によると、この言い方はスコーレムやラッセルに遡るらしい。では、集合論以前の数学では、elementary という言葉はどういう意味に使われていたのだろうか。

さらにさらに、脱線になるが、世の中で「初等的」と「初歩的」と「入門」と「一般向け」というものが曖昧に混同され、しかも少々低く見られているのも問題なしとしない。しかしこれについてはまた改めて。


2013年6月3日(月)くもり

引き続きMarkerの教科書を読む。けさ早く、ある方からメールで「あの命題は成りたたないのではないでしょうか」という指摘を頂いた。識別不可能集合を使って反例が構成できる、という話であった。たしかにそうかもしれない。ただ、その構成法は、件の補助定理

可算言語上の完全公理系 \(T\) がある非可算濃度 \(\kappa\) で \(\kappa\)-範疇的ならば,\(T\) は \(\omega\)-安定である.

の(対偶法による)証明において、二つの同型でないモデルをつくる二つの論法のうちの、懸案の命題を使わないほうの(実現するタイプの少ない)モデルの構成に酷似していた。ともあれ、懸案の命題のステートメントはそのままでは成立しないわけだが、上に引用した補助定理の証明に必要なのは、単に、不可算個のタイプを実現する濃度 \(\kappa\) のモデルが存在すること、である。それに比較すると懸案の命題は強すぎる。俺たちがなにか勘違いして考えている可能性はある。

夕方、0-1くんが質問に来た。キューネン本2011年版で証明なしに掲げられている補題: \[ \aleph_0\leq \theta\leq \big|B\big| \text{ ならば } \big|B^\theta\big|=\big|[B]^\theta\big| \] の証明ができん、という。(ここで、絶対値記号は集合の濃度を意味し、 \(B^\theta\) は基数 \(\theta\) から集合 \(B\) への写像全体の集合、\([B]^\theta\) は \(B\) の部分集合のうち濃度が \(\theta\) のもの全体のなす集合のことだ。)とはいえ、少し助言したら \(|B^\theta|\geq|[B]^\theta|\) はできたので、反対向きの不等式の証明を伝授:

仮定 \(\aleph_0\leq \theta\leq |B|\) と既知の基数の積の性質から \(|\theta\times B|=|B|\) となる。また \(\theta\) から \(B\) への写像はグラフと同一視されて \(\theta\times B\) の部分集合とみなされるが、その濃度は定義域の濃度に等しいから \(\theta\) である。このことから \[ B^\theta\subseteq [\theta\times B]^\theta \] であって、\(|\theta\times B|=|B|\) とあわせて \[ \big|B^\theta\big|\leq \big|[\theta\times B]^\theta\big|=\big|[B]^\theta\big| \] となる。

俺が \(B^\theta\subseteq [\theta\times B]^\theta\) となる理屈を言ったら、残る部分は0-1くんも洞察できたようだ。つまり、こういういろいろなアイデアを、彼は学んでいる最中なのだ。


2013年6月2日(日)あめ

妻はまたまた某巨大ショッピングモールの医務室詰めのバイトにでかけた。子供らは午前中は教会学校。午後は【娘】が友達と出かけ、【息子】は家で遊んでいた。俺は、食材やらなにやらの買い出しに近所のスーパーへ行ったほかは、家でおとなしくしていた。

昼食に冷やし中華を作り、夕食の足しに定番のかみなりこんにゃくを作った。どちらも思ったより薄味になった。ううむ。このごろ間違いなく料理の腕が落ちている。


2013年6月1日(土)あめ

毎年この時期、学部の学生の親御さんを交えての教育懇談会というのが開かれる。希望者については親御さんと担当教員との個別懇談というのも受け付けている。俺は3年生11人を受け持っていて、そのうちの一人のお母様が見えたので、研究室でお話しさせてもらった。